苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

造り主こそ

使徒14:1−18
2010年7月4日 小海主日礼拝
序. イコニオムでの分裂騒動

 バルナバパウロの第一回伝道旅行を続けて見てまいりましょう。前回小アジアのピシデヤのアンテオケでの伝道の様子を見ました。十字架のことばが語られると、ユダヤ教指導者たちはパウロたちに反対し、異邦人たちは悔い改めてイエスを信じたのです。
 次なる宣教地はルカオニア地方のイコニオム、ルステラ、デルベという三つの町です。やはりいつものように、バルナバパウロは、ユダヤ人の会堂に入って、イエスこそ旧約聖書において預言されていたメシヤであることを立証しましたので、ユダヤ人、ギリシャ人ともに多くの人がイエスを受け入れました。
 ですが、先の町でもそうであったように、信じようとしないユダヤ人もおりまして、彼らは異邦人までもそそのかしてバルナバパウロに悪意をもつようにさせたのです。(14:1,2)けれども、そんなことでめげてしまうバルナバパウロではありません。彼らは、イコニオムでは多くの改宗者が得られそうだという感触をえたので、ここに長く滞在して、大胆に大段に十字架のことばを宣べ伝えました。(14:3)
こうしていよいよ改宗する人々は増え、かつ、反対する人々も増えていきイコニオムの人々は二派に分かれてしまいます。パウロは、十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける者たちには神の力だということを、ますます実感させられたわけです。「ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。」(14:4)そして、パウロたちに悪意を抱く人々は、異邦人、ユダヤ人いっしょになって、使徒たちを石打にしようと謀ったのです(14:5)。石打というのは、神を冒涜した罪だとして死刑にしてしまおうとすることです。
 これは危険でした。二人は、主イエスの教えにしたがって次の町へと伝道地を転じるのです。かつて使徒たちに伝道者心得を教えられたとき、主イエスは「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。」(マタイ10:23)とおっしゃったことがあります。いのちが惜しいわけではありませんが、殉教することが第一の使命ではなく、福音を伝えることこそが彼らの第一の使命ですから、むざむざ殺されるわけには行かないのです。二人は難を避けて、ルステラとデルベへと転じて、福音の宣教を繰り広げました(14:6)。福音宣教を続けること、これが一番肝心なことでした。(14:6,7)

1.足なえのいやし


 さて、このようにしてやってきたルステラ宣教の真っ最中の出来事です。今回はバルナバパウロは、会堂ではなくて、人通りの多い町の門のところで福音の宣教をしました。当時の町はみな城壁に囲まれていて、いくつかの門があって、朝に開かれ夜には閉ざされたわけです。当然、町の門は人々の通りが多かったわけです。路傍伝道をするにはもってこいの場所でした。
 ですが、相手は、シナゴーグで話すときのように旧約聖書の創造主なる神を知っている人々ではありません。ギリシャのオリュンポスの八百万の神々を信じている人々に対する伝道です。そういう意味で、何が起こるかわからない状況です。しかし、「異邦人への光」として自分は主によって送られたのだとパウロは自覚していましたから、まっすぐにキリストの十字架のことばを語ります。
パウロは「イエス・キリストこそ、待望されたメシヤであると宣言し、イエスは十字架で死んで、よみがえり、今も生きて働いてくださるおかたである」と大胆に宣べ伝えました。
 と、そこに生まれながらの足なえがいました。歩いたこと自体、生まれてことのかた一度も無かった人です。ということは、足の筋肉も、骨も、神経組織自体が無いに等しいような状態だったということになります(14:8)。彼は、初めて聞かされるイエス・キリストの話に引き込まれ、心開いて、その死に打ち勝って今も生きておられるお方イエスを信じる信仰が与えられたのです。「この私の罪を背負って死なれたイエス様は今も生きていらっしゃる。」と彼のうちは熱く燃えて来るものがありました。
 話に熱心に聴き入っているこの人の姿に使徒パウロも気がつかないわけがありません。説教者としてみなさんの前に立てばわかることですが、聞いているみなさんは自分は20人、30人のなかの一人と思っているかもしれませんが、話をする側は、みなさんの一人一人の表情が手に取るようにわかるものです。熱心に聴いているなあとか、なにか今日は落ち着かない心らしいなとか、目をつぶって聴いているふりをしているけれど寝ているのは疲れているのかなあとか。この生まれながらの足なえの男は、それこそキリストの十字架と復活のことばを聞くうちに、自分の罪を知って悔い改め、神に罪赦された喜びに目がきらきらと輝き、大きくうなづくので明確な信仰を見て取ることができました。
 聖霊パウロにもはっきりと教えたのです。彼にはいやされる信仰がある、と。
14:9 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
14:10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。
 ちょうど、エルサレムでのペテロによる足なえの癒しの奇跡のようです。「金銀は私にはない。しかし私にあるあげよう。ナザレのイエス・キリストの御名によって、歩きなさい。」といったときの、あの奇跡です。生まれながらの足なえ、一度たりとも歩いたことのない足なえです。ただ骨に筋と皮がついているだけのような、未発達のままの足がくっついているだけのような状態なのです。そんな彼にパウロがイエスの権威を帯びて「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と命じると、彼の死んでいるにひとしいような足の神経組織が目覚め、血管にどくどくと血が流れ、筋肉が瞬時に成長し、彼は躍り上がって歩き出したのです。これを奇跡と呼ばずして、なんと呼びましょうか。

2.群衆は使徒たちを神々に祭り上げる

 群衆は、この足なえのことをみんな知っていました。当時のルステラの町というのは、今の東京のような「隣は何をする人ぞ」というほどの人口の巨大都市ではありません。彼が生まれながら歩いたことなど一度もないということは、町中の人で知らない人などひとりもいません。みんなびっくり仰天しました。エルサレムで生まれながらの足なえの奇跡が起こったときには、ユダヤ人たちは旧約聖書の民ですから、ペテロたちを神々としてあがめるようなことはしませんでしたが、ここルステラはギリシャ神話の神々があがめられている異邦人の町です。反応がちがいました。あたりは異様な興奮に包まれました。群衆がなにかを叫び始めました。
けれども、11節にあるように、群衆はパウロバルナバも知っている共通語のコイネー・ギリシャ語ではなくて、興奮のあまりこの地方の言葉ルカオニヤ語で叫ぶものですから、バルナバパウロにはいったい何を叫んでいるのか理解できませんでした。とにかくなんだか大変な興奮のしようで、喜んでいることはわかりますから、まあニコニコしていたのでしょう。ところが、実はルステラの人々はとんでもない誤解をして、とんでもないことをしようとしていたのでした。群衆は、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」(11節)と言っていたのでした。そして、「そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ」(12節)のです。バルナバは体格も立派で、風采も威厳が満ちていたので、オリュンポスの神々の主神ゼウスに違いないと考え、貧弱な体格で若くてペラペラとしゃべるパウロは、神々の伝令係りを務める青年神ヘルメスにちがいないと考えたわけです。
パウロが伝道していたのは、ルステラの町の門のところでしたが、その門の前にゼウス神殿がありました。ルステラの町の守護神がゼウスだったので、彼らはバルナバのことをゼウスであると思い込んだわけです。興奮した群衆は、ゼウス神殿の祭司に「祭司様、神々の王ゼウスが現われました。」と叫んでパウロが主の名によって行なった奇跡のことを伝えたので、祭司はそれは一大事であるとびっくりしました。自分が毎日香をたいて仕えている大理石のゼウス像ならば知っているけれども、本物が出現するとは思いもよらない事態です。とにかく、最高のもてなしをしなくてはと考えまして、人をやってゼウスへのいけにえとしての最高の雄牛数頭を引いてこさせ、花飾りを用意させて、荘重な足取りでバルナバパウロのもとにやって来たのです。群衆は息を呑んで見守っています。「すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。」
バルナバとサウロの前に祭司が先頭に立ち、数頭の立派な牛が引いてこられます。花輪もあります。そして、祭司はなにやら祝詞(のりと)をうなり始めたのです。「ここにおはしますは、畏くも、わがルステラの守護神オリュンポスの主神ゼウスと伝令神ヘルメスにおはすと存ず・・・・」こんなとんでもないことになって、バルナバパウロはようやく群衆がなにを考えているのかがわかりました。
今、私たちは喜劇を見るような思いがしますが、まことの唯一の神に仕えるパウロバルナバにとっては笑い事ではありません。いやそれどころか、命の危ないことです。被造物にすぎない自分たちが神として崇められ、供え物をされることほど大きな罪はないからです。実際、あのヘロデ・アグリッパは演説中に人々が「これは神の声だ、人の声ではない」と群衆が誉めそやすので、いい気になっていたら御使いに撃たれ、虫にかまれて死んでしまったではありませんか。もし、パウロバルナバがこれで悦に入っているようならば、御使いはバルナバパウロをも撃ち殺すでしょう。
それで、バルナバとサウロは衣を引き裂いて、群衆に駆け込み、自分たちはただの人間にすぎないのだと叫びます。「これを聞いた使徒たち、バルナバパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。『皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。』」(14:14,15)


3.造り主のみが神

 こうしてバルナバパウロは真の神について述べていきます。パウロはここで、神について二つの真理を教えています。
第一は、人間を祭り上げて神々にとして仕立て上げたようなむなしいものではなく、天地万物の創造主であるという真理です。造り主こそ、私たちが崇めるべき唯一のお方であって、人間であれ、動物であれ、天体であれ、いかなる被造物でも崇めることはむなしいことです。「そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」(15節)
日本でも、多くの人々は、被造物を神々として祭り上げて崇めています。ワニを祭っているといえば金毘羅宮。へびを神として祭る神社としては蜂が峰神社などたくさんあります。いつかお話したように、桐生の神主の息子として育った堀越暢治先生は、かつて陸軍将校でした。神国日本は不敗であると信じて、父とともに日夜神社で祈った少年は陸軍軍人になったのです。ところが、埼玉県朝霞の士官学校にいる間に敗戦。きのうまでのヒーロー扱いが、犯罪者扱いに変わりました。その後、先生は真理を求めてまことの神とは創造主のみだと悟って、クリスチャンになって、先祖伝来仕えてきた「それを見れば目がつぶれると言われていた」御神体なるものを見ました。神社の奥の扉を開いてそこにあったものを見たら、それはもともと人形があったらしいのですが、ねずみに食い散らかされてネズミの糞の山となっていました・・・・。なんとむなしいことでしょうか。堀越先生の父親は、先祖伝来神主としてこんなネズミの糞を日夜拝んで、有為の青年たちを励まして戦地へと送ったのです。なんとむなしいことでしょうか。
まことに人間が礼拝すべきお方は、ただおひとり、創造主である神のみです。それだけが、むなしくない、中身のある礼拝です。

 パウロが教えた第二のことは、被造物を通しての啓示に関してです。啓示というのは、神様が私たちに対してご自分とご自分のみこころについて教えてくださることを意味しています。聖書がなく、造り主である神を知らなかったのだから、多くの人々が被造物を神として拝んだことは当然のことではないか、という人に対してパウロは語るのです。いや、真の造り主である神は、多くの恵みを注いであなたがたにも多くの恵みを注いでご自分のことを現わしてくださってきたのだ、と。
「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」(14:16,17)
 聖書を通じて与えられることばによる啓示を特別啓示といい、被造物の姿・営み・歴史を通じて与えられる啓示を一般啓示といいます。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)
 みなさんは今朝もパンやごはんを食べこられたことと思いますが、そのもとであるお米や小麦はどのようにしてできたのでしょうか。植物は、ご存知のように光合成という働きによって成長していきます。植物にそなえられた葉緑素は、光合成生物は光から変換した化学エネルギーを使って水と空気中の二酸化炭素から、炭水化物を合成するのです。そして、同時に、光合成は水を分解する過程で、動物や人間が生きるために必要な酸素を大気中に供給しています。植物の光合成の働きがなければ、私たちは食べることはもちろん、呼吸することさえできないのです。
 これらの実によくできた精巧な設計が偶然できあがったのだという人の目は、ほんとうに節穴です。この被造物世界の営みは、この光合成だけでなく、地球の自転と公転といった宇宙大の巨大なレベルから、土の中や私たちのおなかのなかの微生物の営みにいたるまで、実に見事に設計されているものです。ここには神の愛と知恵とが、はっきりと認められるではありませんか。造り主などいるとは知らなかった、知らなかったから礼拝しなかった、などという弁解の余地はないと聖書は述べているのです。しかし、無神論者を自称していた私自身かつては目が節穴でしたから、偉そうなことは言えません。ほんとうに、真の神に背を向けたとたん、人間はつまらんことには知恵は働きますが、もっとも大事な神については実に無知なものとなってしまったのです。  造り主こそ、ほめたたえられるべきお方です。