苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

福音書に、青年サウロが?

 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に、サウロらしき男がイエスのもとを訪ねている記事がある。サウロとはもちろんのちのパウロのことである。どの福音書もその名を明かしていないのだから、決して断言するわけではないが、筆者には、これは青年サウロではないのかと思われてならない。

「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを「尊い」と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。」』 すると、その人はイエスに言った。『先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。』イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」(マルコ10:17-22)

 彼は、金持ちであり、役人であり(ルカ18:18)、厳格な律法の教育を受けた育ちのよい人物であり、自分の律法遵守については珍しいほど自信満々の人物であった。主イエスは、貧しい人々に全財産を施してからついて来いと命じることで、彼を挫折させた。彼はこのとき初めて、第十戒「むさぼってはならない」という戒めを自分は守っていない、守ることができないことに気付いた。彼は生まれて初めて自分は罪人なのだと認めざるをえなくなる。
 う〜ん、読めば読むほど、この若い役人は、若き日のサウロそっくりだ。サウロが生まれながらローマの市民権を持っていた事実からすれば、彼が相当の資産家の家庭に生まれたことは確かだろう。また、サウロ(パウロ)は自分の家柄と律法遵守について、こんな風に言っている。「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」(ピリピ3:4-6)
 そして、自らの律法による挫折、罪の自覚については、次のように語っている。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」(ローマ7:7-10)
 だが、あの育ちがよく生真面目で自信に満ちた若い役人が、事実サウロであったとしたら、なぜそのことを福音書が伏せているのか?その理由がわからない。特にマルコとルカはパウロと交流があったことを思えば、彼の名を記していないのは不自然ではある。読者のうちに私と同じような印象を持った方は、いらっしゃるだろうか。

 ノコギリソウ