苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

マルコ福音書の記者

 マルコ福音書の記者はある青年のストリーキングを記録している。ゲツセマネにおける次の記述である。「ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。」(14:51,52)満月の夜とはいえ、オリーブの林の暗がりのなか、イエスを裏切って裸で逃げ出してしまった匿名の青年。これは記者本人でなくて誰であろう。彼は、自分の醜態をここに書き留めた。それは、この裏切りにもかかわらず自分を赦してくださった主の恵みを記念するためであった。悟りある読者は悟れ、である。類似のことは、マタイ福音書の記者のみが十二弟子のリストのなかでマタイを紹介するにあたって、自分の恥ずべき過去の経歴を付して「取税人マタイ」と特筆していることにも見られる(マタイ10:13)。
 ところで、なぜ彼は素肌に亜麻布一枚だけだったのだろう?それは、恐らく、前後の脈絡から次のような事情があったのだろうと推察される。主イエスが弟子たちと最後の晩餐をとったのが、彼の家の二階の大広間であった。食事が終わると、主イエスはいつものように、祈るために、弟子たちといっしょにゲツセマネの園に出かけてしまった。そこで彼は、おそらく就寝前に水浴びをしていたか、あるいは着替えの最中だったのか、裸で寝る癖があったのか、とにかく裸だった。ところが、屋敷の玄関の方から騒がしい声がする。「イエスがここにいることはわかっているのだ。」と居丈高に叫ぶのは、イスカリオテ・ユダが手引きして来たユダヤ当局の官憲の声である。家の者が「はあ。でも、ご一行は、もうお出かけになりました。」と答えるのが聞こえる。すると、イスカリオテ・ユダの声がする。「ならば、イエスは必ずゲツセマネの園にいます。」すると兵士たちはばたばたと出かけて行ってしまった。
この話し声を聞いた彼は、着物を着るいとまもなく、そこにあった亜麻布一枚をまとって暗い道をゲツセマネの園へと通報せんがため駆けた。だが、到着してみると、そこで見たのはイエスの逮捕劇だった。・・・と、私は推理している。
 この二階に大広間をもつ屋敷の坊ちゃんがマルコだったから、マルコ福音書と呼ばれるようになったということになる。ただパピアスはマルコはイエスに直接会っていないと書いているのだが、もし上の推理が正しいとしたら、彼はイエスに会っていることになる。イエスの弟子にして欲しいという憧れは持っていたけれど、若すぎてかなわなかったのかもしれない。あるいは、後にもバルナバパウロとの伝道旅行を途中で放り出して逃げたように、まだ献身者として覚悟できていなかったからだろうか。

 八重オダマキ