苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

マルコ福音書―活き活きとした証言

 バルナバの甥ヨハネ・マルコについて、少々メモしておきたい。2世紀のパピアス以来、マルコはペテロの通訳を務めた弟子で、彼はペテロから直接聞き取ったことに基づいて福音書を記したとされる。「また私の子マルコもよろしくと言っています。」(Ⅰペテロ5:13)「私の子マルコ」とあるのを見れば、老ペテロとマルコは、ずいぶん親しかったことがわかる。
 マルコは、使徒ペテロと親しい間柄にあって、シモン・ペテロから多くの生の証言を得て、マルコ福音書を記したことが本文のあちこちからうかがわれる。たとえば、山上の変貌の記事である。マタイ福音書の並行記事と比較すると、それがよくわかる。
 「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」(マルコ9:2,3)この「世のさらし屋では・・・」という表現には、いかにもガリラヤはカペナウムの漁師のことばらしく、素朴で、直接の目撃証言らしい響きがある。マタイは、「御衣は光のように白くなった。」(マタイ17:2)と、ごく陳腐な表現をとっている。
 また、エリヤとモーセが現われてイエスと話をしているとき、ペテロはわきから「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マタイ17:4)と発言したと書き留められている。なぜ、ペテロはそんな変なことを口走ったのだろうか? なにか神学的理由があるのだろうか?マタイ福音書にはペテロの発言の意図は書かれていない。しかし、マルコ福音書にはちゃんと書いてある。「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。」(マルコ9:5,6)と。老ペテロはマルコに「いやもうびっくりして、なにを言ってよいかわからないけれど、とにかく何か言わなくちゃと思ったから、とりあえずつまらんことを言ってしまったんだよ。」と頭をかきながら話して聞かせたのだろう。これはペテロの心の内の理由だから、ペテロ本人でなければ、わからない。だから、いかにも当人の生の証言のにおいがする。だがさしたる意味のない理由であるから、マタイは記録する必要なしとしてカットしてしまった。だが、こういうさしたる意味のないことが書きとどめられているからこそ、山上の変貌という出来事が作者によって周到に構想されたな神学的フィクションではなく、目撃証人のレポートとしての生々しさがある。
 四つの福音書にはそれぞれ記者の個性があり、それぞれの味わいがあるが、そのなかで、私には、こういう素朴で証言者の息遣いが聞こえてくるようなマルコ福音書がいちばん好ましい。
 

 マダケのたけのこ。都市で売っているモウソウダケのものよりも小ぶりですが、あくが少なくておいしい。