苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

教理体系見直し6 救いの順序

6.救いの順序
(1)救いの順序
 救いの順序(ordo salutis)について、パウロはローマ書で次のように述べている。
「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:29-30)
 1.神はある人々を、世界創造の前に、御子のかたちと同じ姿に定めた。
 2.神は選んだ人々を召した。
 3.神は召した人々を義と認めた。
 4.神は義と認めた人々に栄光を与えた。
 5.御子は神の家族の長子となられる。

(2)あらかじめ御子のかたちに定め、創造された
 父は、ご自身の民を「御子のかたち(エイコーン)と同じ姿に」あらかじめお定めになった。それはエペソ書1章の表現でいえば「ご自分の子」「御前で聖く、傷のない者」としようとされたということである。ある者たちを「御子のかたちと同じ姿」に予定したというのは、御子イエス・キリストがそもそも「神のかたち(エイコーン)」(コロサイ1:15)であり、人は本来「神のかたち」にあって創造された者であるからである(創世記1:26,27)。
 とはいえ、人が創造されたときの状態は、さらに成長を遂げる可能性のある状態だった。つまり人は善悪の知識の木の試練に勝利を得たならば、栄光を受けて「神のかたち」である御子の満ち満ちた身丈に達するはずであったと考えられる。しかし、そこに人間の堕落とその後の歩みという長い間奏曲が入った。(このような推論においては、全知全能の神がすべてをあらかじめご存知であったはずだという思弁を持ち込むべきではない。)
 父なる神が、あらかじめ御子のうちに、ある人々を神の民を定められたのは、世界の基の置かれる前からである(エペソ1:14)。

(3)召し
 神はあらかじめ選んだ人々を時至って召された。召しは聖霊による内的な召しと、伝道者のみことばの宣教による外的な召しが相伴って、有効な召しとなる。羊飼いである主のみことばが宣教されるとき、主の選びの羊は聖霊によって主の声を聞き分けて、主の後をついて行く。主イエスは言われた。「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:3-5)
 したがって、伝道者の任務にとって肝要なことは、正しく牧者であるイエスの声、つまり、純正な福音で呼ぶことである。さもなくば、主の羊でないものもついて来て、教会は羊の群れでなく動物園となって混乱をきたすだけであろう。

(4)義と認める
 神の召しを受けた人は、御霊とみことばの働きによって己の罪を自覚させられ、イエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れる。神は、そのキリストを信じた人を、キリストの義を根拠として、義と宣言してくださる。

(5)栄光を与える
 イエスを信じる者は、アダムにあって堕落したために受け損ねていた神からの栄光に与かることになる。それは御子のかたちと同じ姿とされるということである。ローマ書がここで「栄光をあたえる」というのは、子とすること、聖とすること、そして、世を去って御子の御許につれていかれるときになされる罪のきよめと、新天新地が創造されるときにおける究極的な栄化を包括する概念である。
 究極的栄化とは単に堕落前の創造の状態に復帰することを意味するのではなく、「キリストの満ち満ちた身丈に達する」ことを意味する。究極的栄化が、創造の状態よりもすぐれた状態であることは、いくつかの点からあきらかである。たとえば、堕落前、いのちの木は一本であったが、黙示録最終章のいのちの木は並木をなしていること。
 また、第一コリント15章でパウロは、次のように言っている。「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」(Ⅰコリント15:43-49)創造におけるアダムは土で造られた血肉のからだであったが、御国においては御霊に属するからだを持つことになる。とはいえ、それは霊ではなく、御霊に属する「からだ」である。
 これは自由意志に関する4つの状態を考察してみてもあきらかである。①創造の状態にあって、人は<罪は犯しうる(posse peccare)>罪なき状態であった。②堕落後の状態にあって、人は<罪を犯さないことができない(non posse non peccare)>状態となった。③キリストの救いに与かった恩寵の状態においては、聖化の途上にあって、なお<罪を犯さないことができない(non posse non peccare)>のであるが、④究極的栄光化において、<罪を犯しえない(non posse peccare)>罪なき状態とされる。

(6)御子が神の家族の長子となられることが目的である
 「御子が多くの兄弟の中にあって長子となられる」とローマ書がいうことは、キリストが教会のかしらとなるという意味である。それは主イエスの初臨と十字架・復活・昇天・着座によって原理的に実現したが、それが究極的に完成するのは主が再臨するときである。
 さらにエペソ書は、「時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」(エペソ1:10)とあるように、キリスト再臨後の被造物全体を含むスケールでの新しい天と新しい地の完成を告げている。神の民は復活し御霊に属するからだを与えられて、キリストとともに王として、この新しい天と新しい地を治めることになる。