苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

死を超越する望み

使徒12:1−23
2010年5月30日 小海主日礼拝

隣村の家庭集会に行く途中、野辺山高原八ヶ岳を望む。手前はレタス植え付け前のマルチを張った畑。


1.使徒ヤコブの死とヘロデの死

 新約聖書にはヘロデという名のつく人物が3人登場します。一番有名なのは赤ちゃんのイエス様を殺そうとしたヘロデ大王です(マタイ2:1)。その息子に国主ヘロデと呼ばれるヘロデ・アンテパスがいます。彼はバプテスマのヨハネを死にいたらしめた男であり、ピラトはイエスに判決を下す前にアンテパスの下にイエス様を送り付けました、(マタイ14:1、ルカ23:7)。そして、本日読んだヘロデ王というのはヘロデ大王の孫にあたるユダヤの王ヘロデ・アグリッパ1世です。

(ほかにもヘロデ家の男が三人おりますが、聖書ではヘロデの名を冠していません。マタイ2章のアケラオはヘロデ・アケラオ。マタイ14:3のピリポはヘロデ・ピリポでヘロデ・アンテパスの兄弟。使徒25,26章のアグリッパはヘロデ・アグリッパ2世。)

 ユダヤの王ヘロデ・アグリッパ1世は教会を弾圧し、使徒ヤコブを処刑してしまいました。ヘロデになにか信念があってキリスト教会を憎んだわけではありません。ただ単にユダヤ教当局が目の敵にしているキリスト教会を迫害すれば自分の人気がユダヤ人のなかで少しはよくなるだろうと考えたのです。そもそもヘロデ王家というのは、ユダヤ人ではなくエサウの血を引くイドマヤ人の王朝でしたから、結構、ユダヤ人たちから人気取りに苦労していたのです。独裁者だったヘロデ大王も、ユダヤ当局のご機嫌を取るために、広壮な神殿を建築してやりました。
 このヤコブゼベダイの子ヤコブ使徒ヨハネの兄弟です。十二弟子の中ではペテロ、ヨハネヤコブあわせて三羽烏でした。ヤコブはイエスさまについてエルサレムに向かう途上、弟ヨハネといっしょになって、「イエス様、あなたが王様になった暁には、右大臣・左大臣にしてくださいと」お願いしました。イエス様は「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」とお答えになりました。 彼らが「できます」と言うと、イエス様は「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。」とおっしゃいました。その杯とは、イエス様のために殉教することを意味していたわけですが、その預言がここに成就したのです。このようにヤコブの殉教は主のみこころによることでした。

 ヘロデがヤコブを処刑したところ、ユダヤ当局はよくやったとばかりにヘロデ・アグリッパをほめそやしましたので、アグリッパはいい気になって、今度は使徒ペテロを処刑しようと逮捕・投獄してしまいます。ですが、みなさん先ほど読みましたように、ペテロは主が御使いを遣わして獄から救い出されることになります。
 ヤコブは逮捕・投獄されたときにも当然のことながら、教会の兄弟姉妹は必死で祈ったことでしょうが、ヤコブは処刑されて死んでしまいました。ですが、ペテロは救い出されます。なぜか。主はなぜペテロをお助けになるのに、ヤコブはお助けにならなかったのでしょうか? 結局のところ、ヤコブとペテロに対するそれぞれの召しのちがいです。ヤコブには、この時、主イエスのために命を捨てることによって主の栄光を現わすという任務が与えられたので、彼は殉教しました。 他方、ペテロの場合は、なお生かされてキリストの福音を宣べ伝えることによって、主の栄光を現わすという任務が与えられていたのでした。「わたしにとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)イエス様を信じてすばらしい永遠の生命をいただいているキリスト者にとっては、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」
 私たちの命は、主から託された命ですから、軽々しく捨てるべきでないことはいうまでもありません。主から託された命をキリストのために燃焼し尽くすまでにきちんと生きぬくことは、人間にとって大事な義務です。けれども、もしかするとヤコブのように、主イエスのためにこのからだの命を差し出すべきときが来るかもしれません。そのときには、潔く「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と告白して、殉教できるお互いでありたいものです。

 ところで、今日のお読みした記事で、もう一人の男の死を見ておきたい。それはヘロデ・アグリッパ王です。(18節から23節)
 「定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。 そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」
 ヤコブを殺し、ペテロを取り逃がした16名の兵士を殺したことに見るように、他人の命など虫けらの命ほどにしか考えていなかったヘロデ・アグリッパでした。自分は生殺与奪の件を持つ神だとでも思っていたのでしょう。彼は自分の演説が「神の声だ。人間の声ではない。」とほめそやされると、いよいよ上機嫌になってしまいます。主の使いは、こののぼせあがったアグリッパを撃ち殺されました。しかも、人のいのちを虫けらほどにしか思いあがったアグリッパにふさわしく、虫けらにかみ殺されるという方法で、神はヘロデを処刑されたのでした。
 ヤコブは死にました。アグリッパも死にました。しかし、私たちは、肉体の死といううわべの現象にとらわれてはなりません。悟るべきことは、その死に現れた主のみこころです。ヤコブは主の福音のための栄誉ある殉教でした。他方、アグリッパの死は、神を冒涜した罪に対する神からの聖なるさばきとしての死でした。また、死そのものよりもはるかに大事なことは、死後の永遠の行き先の永遠をどこで過ごすかということです。神に背いて死んだヘロデ・アグリッパの行き先は、いうまでもなく燃えるゲヘナです。ゲヘナの炎は尽きることがなく、そのうじも尽きることがありません。他方、ヤコブの行き先は栄光と平安に満ちた主イエスのみもとです。そこで、主イエスが義の栄冠をヤコブにかぶせてくださいました。
 
2.ペテロの平安

 さて、ペテロの話に戻ります。エルサレム教会の指導者となっていたペテロとしては、ヤコブの次に自分が逮捕されるだろうことは容易に想像されました。時期は、「種なしパンの祝いの時期」(3節)。イエス様が十字架にかかってから、あれからもう1年です。この間になんと福音は劇的に前進してきたことでしょうか!主イエスがおっしゃったとおり、まず福音はエルサレムユダヤとサマリヤ全土に広がり、さらにフェニキヤ、エチオピア方面にまで広がりつつあります。
 教会では、ヤコブに続いてペテロまで逮捕されたのですから、必死になって神様に祈っていましたが、ペテロ自身としては、イエス様が十字架にかかられたこの季節に、自分のいのちを主におささげできるならば、これは光栄なことだと思っていたでしょう。ペテロは、ガリラヤ湖のほとりで、主イエスから殉教の約束をいただいていましたから(ヨハネ21:18,19)、その日が訪れたのだと思っていたようです。だからこそ、彼は逮捕されても恐れもせず、慌ててもいません。16人の兵士に監視され、牢屋で二本の鎖につながれて二人の兵士の間にはさまれているという、たいへん窮屈な状況に置かれていましたけれども、グーグー寝ていました。御使いがペテロのわき腹をつっついて、「急いで立ち上がりなさい」といわれるまで熟睡していたとあります(6、7節)。
 このペテロの平安な熟睡はなんでしょうか?ペテロが特別豪胆な人であったわけではありません。このペテロの姿を見ると、嵐のガリラヤ湖の大波に木の葉のようにもまれる小舟のなかで、グーグー眠っていた主イエスのことを思い起こします。あの日、ペテロは他の弟子たちといっしょになって、「イエス様、私たちが死んでもなんとも思われないんですか。」と叫んだものですが、今、ペテロは主イエスの平安をいただいているのですね。主イエスの御霊に満ちています。
 ペテロにとって、「生きることはキリスト、死ぬことも益」なのですから、なんの心配がいるでしょうか。明日、ヘロデ・アグリッパの前に引き出されたら、御霊の導かれるままに主の福音をあかしすればよいことです。そして、その結果、もし万一釈放されることがあれば伝道を続けるわけですし、また、もし死刑と決まったならば、懐かしい主イエス様のいらっしゃる御国に凱旋することになるのです。「わたしのために命をも捨てたか。よい忠実なしもべだ」と主は彼の肩を抱いてくださるでしょう。楽しみです。
天国はなんと待ち遠しいことでしょうか。そこで、栄光に輝く主イエスと再会することができるのです、なんと喜ばしいことでしょうか。主イエスとの再会を思えば、胸躍る思いがします。ペテロとしては、主の福音のためにいのちをささげることができるなら、伝道者冥利に尽きることはありません。ペテロだけではありません。誰でも自分の罪を認めて、イエス様を信じる者には、肉体の死の向こうに祝福と喜びに満ちた天の御国が待っています。

3.ひとかけらの信仰でも

 けれども、ペテロに対する主のみこころはヤコブに対するみこころとは違っていました。ペテロはまだしばらくこの世にあって、いろいろと苦労をなめた後に殉教することになります。
 教会では、一時に二人も指導者を失ってはえらい事ですから、必死で神様に向かって祈っています。「主よ、どうぞ使徒ペテロさんまでも奪い取らないでください。ヘロデの毒牙からペテロを救ってください。」と。しかし、厳重きわまりない監獄に監禁されてしまっているペテロの状況を思うと、いったいどうやってペテロが救い出されうるのか、見当もつきません。
 しかし、神にとって不可能なことはありませんでした。主はペテロの牢獄へ御使いを送って、かんたんにペテロを救い出してしまわれました。御使いは、ペテロの横腹をつついて起こすと、夢見心地のペテロに「ほれ、帯を締めて、靴を履きなさい」「ほれ、上着を着なさい」と行って、牢屋から連れ出してしまいます。第一、第二の門番たちの立つ衛所もかんたんに通り過ぎて、町に通じる門までくると、厳重な鉄の門はなんと自動ドア。ギーッと開いてしまいました! しばらく行くと御使いは仕事が終わったので去って行きました(8-10節)。われに返ったペテロはいいました。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」(11節)。
 ペテロはすたすた歩いて、あの弟子たちが必死で祈っているマルコの実家の母の屋敷に来ました。ここは最後の晩餐の場所であり、ペンテコステの時にも集会をしていた場所でもあったようです(12節)。
 うちの愛犬ロダは無職で寝るのが仕事のようなものですが、たったひとつ自分の仕事だと自覚しているのが、教会の敷地に人が入ってくると、誰よりも早く気付いてワンワンワンとうれしそうにしっぽを振りながら知らせることです。でも、少しおっちょこちょいでときどき敷地に入って来ない人のことまで知らせます。そういく人がすーっと道を通り過ぎていってしまうと、決まり悪そうにしています。
聖書に出てくる女中ロダも、誰よりも先に使徒ペテロが戻ってきて玄関をノックする音に気がつきました。「彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。」(13節)
でも女中のロダもおっちょこちょいで、門を開けないまま奥へ駆け込んでしまいます。ペテロを連れて行けば誰も疑いようがないのに、ペテロを置き去りにしてきたので、誰も信用してくれません。「あんな厳重な牢屋に入れられているペテロが、そんなひとりですたすた歩いて帰ってくるなんてわけないじゃないか。ロダ、気が狂ったんじゃないの?」というわけです。でも、ロダがあんまり必死なので、「こりゃあ何かを見たんだな。ペテロについている御使いかな?」などとも話しています。彼らも玄関に出て行ってみるとペテロが帰ってきていたのでした。(14-17節)一同、びっくり仰天してしまいました。
 変ですね。今の今までこの兄弟姉妹たちは、必死で神様に向かって祈っていたのです。「主よ。あなたの全能の御手を働かせて、使徒ペテロを救い出してください。あなたにとっては、いかなる鎖も、獄屋の鉄の扉も、屈強なローマ兵たちも、さしたる問題ではありません。どうか、どうか、あなたの奇跡のわざを行なってでも、ペテロを救い出してください。私たちに返してください。」まあ、こんなふうに祈っていたのです。けれども、実際に、主が祈りが答えてくださってペテロを救い出してくださったら、「なに、そんな馬鹿なことはありえないよ。」とみんなが思ていたのです。ペテロはもうだめだろうと本音では思っていたのです。
 祈りながら、必死に祈りながらも、弟子たちは信じられなかったのです。信じ切れなかったのだけれど、そこにひとかけらの信仰を見て、主は答えてくださったのです。主はなんとあわれみふかいお方でしょうか!

むすび
 私たちとともにおられ、私たち信じる者を天の御国に招いてくださる主イエス様はなんとあわれみふかいお方でしょうか。私たちの罪を償って、イエス様は私たちひとりひとりのために所を備えていてくださいます。私たちは、使徒たちのような勇ましい信仰はなくて、小さなひとかけらの信仰しかないかもしれません。「不信仰なわたしを赦してください!」と叫びながら、祈らねばならないような者かもしれません。でも、それでも己の罪と弱さを認め、主イエスにすがる者を主は決してお捨てになりません。愛と正義と平和に満ちたうるわしい天国へ迎えてくださいます。