苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

文体による誤訳


 一昨晩、近くのK牧師といっしょに新改訳聖書の聖書翻訳について話す機会があった。新しい訳業が始まるということなので、日ごろ説教者として聖書釈義をしてきて、気になるところを出し合おうということで、勉強会を始めたのである。K牧師が出された話題の一つは、ヨハネ福音書18章38節だった。二人で話し合ったところを総合してレポートしたい。
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ヨハネ福音書18章37節、38節
37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
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 翻訳の文体を「ですます調」にするか、あるいは「である調」にするか、あるいは「だ調」にするかということは、ほとんどの場合、誤訳とは関係ないと思われるかもしれない。けれども、文脈によっては、必ずしもそうとは言えない。文体にはすでにあるニュアンスやメッセージが含まれているので、文脈によっては「ですます調」を取ることが誤訳となる場合がある。
 上述のヨハネ福音書18章38節は、その典型である。総督ピラトのイエスに対することばを、「真理とはなんですか」と訳したのでは、まるでピラトがイエスに対して謙虚に質問しているかのようである。実際には、この個所は、文脈から明らかなように、真理にまるで無関心な俗物ピラトが、被告イエスをあざ笑うために、吐き捨てるように言ったことばである。とすれば、当然、ここは「真理とはなんだ。」と訳されるべきである。
 なぜ、新改訳ヨハネ福音書の翻訳者は、こんな訳文にしてしまったのだろうか。推測するに、「対話におけるセリフは『ですます調』に訳すこと」という原則を翻訳委員会が立てているらしいので、それを適用せざるをえなかったのではなかろうか?「ですます調」か「である調」かといったことは、単なる形式の問題ではなく、文脈によって内容の問題にかかわってくることをわきまえて、機械的に原則を適用することはやめていただきたいものである。
 ちなみに、口語訳、塚本訳、新共同訳、前田訳はいずれも「真理とはなにか。」と訳している。しかし、それでも訳し足りない。やはり「真理とはなんだ。」と訳したいところである。もちろん聖書は公同礼拝において朗読されるものなので、品位を保つことは必要であると思うが、これなら許容範囲内であろう。
 改めてこの個所の前後を読み返すと、ヨハネ福音書18章28節から19章16節にいたる裁判におけるピラトのことばが「ですます調」であること自体が、非常に不自然なのである。被支配民ユダヤ人に対して相当残忍なこともしてきたローマ総督が、ユダヤ人たちに対して丁重に「ですます調」でやさしく語りかけているように訳されていること自体が、変なのである。その「変」のきわみが38節「真理とはなんですか」である。
 翻訳文体というものは、それぞれの文脈にふさわしいものがあるということを、新しい翻訳の委員会の先生方にわきまえていただきたい。硬直した文体指定は、文脈によっては誤訳をも生み出しかねないのであるから。