苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

通信小海が199号に

 きのう月刊「通信小海」の原稿を書き上げて、今日、新聞折込屋さんに持っていく。今回で199号。通常は月の第一月曜日に折込をお願いするのだが、今回は連休のため一週遅れとなる。南佐久郡の北から佐久穂町、小海町、南牧村北相木村南相木村、川上村が配布の範囲で5500部。16年前の春5月から始めた働きである。
 こういうことを書くと、すぐに牧師たちが質問することは、「それで効果はどうですか?」「人は来ますか?」「費用は?」ということである。効果は絶大、人はポツポツ、費用はそれ相当にである。
 筆者の主イエスの大伝道命令にかんする理解は、神学生時代に教わったことそのままである。大伝道命令は共観福音書末尾と使徒の働き1章に記されている。マルコ、ルカ、使徒に記されている伝道命令は「すべての人に福音を聞かせよ」であり、マタイ伝の伝道命令は「弟子とせよ」である。
 したがって、伝道者は主から自分の託された地域の「すべての人に福音を聞かせる」ことが第一の任務であるから、まずそれを果たすことである。すべての人に福音を聞かせることができたならば、それで成功である。福音を届けた結果、聖霊の内的召しを受けた人は信じて悔い改める。その人を「主イエスの弟子とする」ことが、大伝道命令の求める第二のことである。
 というわけで、「それで効果はどうですか?」という質問に対しては、効果は絶大ですとお答えすることにしている。信州はほとんど共稼ぎ家庭なので訪問だけでは福音を届けるべき相手に会うこともできないが、文書によって福音を伝えることが可能となるから。
 次に「人は来ますか?」という問に対しては、ポツリポツリと「通信を読んで」という方が来られる。よそ者がこういう地域で信用を得るには、まず最低10年地道に何事かを続けることが必要だと思う。9年目にして会堂が与えられたとき、「いよいよ、これからですね。」と町の人に言ってもらえた。都市近郊の住宅地のようなペースでは行かない。収穫を得るにはまず土作り。そんな土作りのつもりでこつこつ継続してきたし、これからも続けるつもりである。費用は自前で印刷するので印刷代はそれほどかからないが、折込代金は一枚3円だからそれなりにかかる。だがこれで主の至上命令にお答えできるなら惜しくはない。
 目に見える成果が得られたら、それは率直にうれしい。畑で汗を流す者が収穫を期待するのはしぜんなことである。だが、ときに主はそういう当たり前でない働きに人をお召しになることもある。ほんとうの意味で主のしもべにとっての成果とは、主の命令にどれだけ忠実にお答えできたかということだけである。
 新約の伝道者は「畑の色づいた収穫の時代」に召されているが、旧約の預言者たちはちがった。霊的に不毛な王国時代に召された預言者イザヤはすごいと思う。なんの収穫も約束されず、それでもなお全て失われた後の「聖なるすえ」に希望を抱いて、預言者としての職務に徹したからである。イザヤ書6章8−13節

   私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いた   ので、言った。
  「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
  すると仰せられた。
  「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。
   見続けよ。だが知るな。』
  この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
  自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、
  立ち返っていやされることのないように。」
 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。
  「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、
  土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、
  国の中に捨てられた所がふえるまで。
 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。
  テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。
  しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」


 「通信小海」に関心のあるかたは、こちらをどうぞ。http://church.ne.jp/koumi_christ/tsushin-koumi.html

 ボケ(こんなにくっきりした色の花なのに、この名はなんだろう?)