苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神に用いられた女たち

                出エジプト記1章1-2章10節
                2010年5月2日 小海主日礼拝

1.歴史としての聖書

 かつてチャールトン・ヘストンが主人公モーセを演じた映画『十戒』がありました。ふたつに割れた海の底を逃げるイスラエルの民、追いすがるエジプト軍の場面は、あまりにも有名です。聖書に記録されたモーセは歴史上の人物であり、イスラエルの民のエジプト脱出の時期は、紀元前15世紀または14世紀の出来事でした。私は15世紀と見るのが妥当だと思います。まず、出エジプト記は、モーセ誕生という出来事の歴史的背景を、1章にていねいに記しているのです。
「さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。」(1:1-5)
 アブラハムの孫ヤコブは、紀元前1800年頃一族を連れてエジプトの地にくだりました。それは、彼らが住んでいたカナンの地が数年にわたって大旱魃に襲われたのですが、エジプトにはアフリカ大陸の熱帯雨林から雨を集めて流れくだる大ナイルがあり、水が確保されており、またヨセフの知恵で食料が大量に備蓄されていたからです。そして、不思議な導きでヤコブの12人の息子のうち下から二番目の息子ヨセフがエジプトの宰相となっていて、父ヤコブと兄弟たちを迎えたてくれたからです。
 ヨセフがエジプトに連れられて行った時、エジプトの王は第16王朝のアペピ2世だったと考えられています 。この王は1800年頃ですから、エジプト展に出品される目玉である夫婦、親子のミイラの入っていた木の棺おけの年代とちょうど同じ頃です。この第16王朝というのはヒクソス人というセム騎馬民族征服王朝で、エジプト土着の人々の王朝ではありませんでした。自分の右腕としてエジプト統治を助けてくれるヨセフ、そして、ヤコブ一族はセム系ですから親近感もあったのでしょう。王はイスラエルを厚遇しました。それでしばらくの間イスラエル人たちは、エジプトに安住していました。
 しかし、やがて、「ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死」んでいきます(6節)。「その子孫たちは、多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた」のです(7節)。

 さて、時代がくだって社会情勢が変化してきます。「ヨセフを知らない新しい王がエジプトに起こった」(8節)とあるとおりです。王朝が交代したのです。それは、エジプトに昔から住んでいた民族が異民族のヒクソク人たちを追い出して、自分たちの王朝を復興したのです。これをエジプト新王国時代といいます。この時代、エジプトには領土を拡張して世界帝国にした好戦的な王たちが起こりました。新王国時代は、異民族を追放したという民族主義的な王朝でしたから、かつてヒクソス王朝に優遇されていたイスラエルの民は、冷遇・弾圧されることになります。モーセが生まれたのは、このエジプト新王国時代、寄留するイスラエルにとっては苦難の時代のことだったのです。
 出エジプト記1章に出てくる王は、考古学者によればラメセス2世かトゥトメス3世とされていますが、私はトゥトメス3世(1500BC)とするのが適切であろうと思います 。王はイスラエルの民は労働力として生かしておかねばならないが、強くなりすぎると王朝にとっては危険であると考えました。ちょうど江戸時代、幕府が百姓に対してそうしたように、「生かさず、殺さず」という政策を採ったのです。とくにイスラエル人は人口が急激に増えていましたので、王の目には脅威として映ったのでした。
「彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」
そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、 1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。」(1:9-13)
 しかし、このような暴君の時代にも勇気ある人たちがいました。しかも、それは屈強な男ではなくヘブル人の女性でした。彼女たちは、神がこの世に送り込むいのちを産ませることこそ自分たちの使命であると認識していました。いのちを奪い取ることは神に背くことであると認識していましたので、王命に背いてまでもヘブル人の赤ん坊を取り上げたのでした。
 「また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
  助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
  神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(1:15-21)
 業を煮やした王は、エジプト人たちに命令しました。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」(22節)実に鬼のような王です。

2.モーセ誕生

 民族が苦難のまっただなかにあった時代に、モーセはこの世に生を享けました。神が、イスラエルを苦難から救い出すために、モーセを世に生まれさせたのです。彼の父はアムラム、母はヨケベデと言って、いずれもイスラエル民族レビ族の人でした。二人の間に赤ん坊が生まれましたが、わが子を手にかけるなど到底できるはずがなく、ひた隠しにしていました。
 しかし、3ヶ月もたつと赤ん坊の声が大きくなって、いよいよ隠すことができなくなりました(2:1)。このままでは早晩官憲に発見されて赤ん坊はとりあげられて殺されてしまいます。このあとの出来事は偶然起こったこととは思えません。わが子のために祈った親に、神がお与えになった知恵に基づく行動の結果と考えるべきでしょう。
 両親はこんなふうに祈ったのでしょう。「主よ。私たちはいったいどうすればよいのでしょう。このまま隠しおおせることはできません。無理に隠そうとして見つかったら、赤ん坊はエジプトの官憲の剣によって殺されてしまいます。王は、男子の赤ん坊はナイル川に捨てよと命じています。・・・」
 そういうふうに祈っている中で、「ナイル川に捨てよ」という言葉にひらめくものがありました。神様から知恵が与えられたのです。それはこういうことです。二つのポイントがありました。ナイル川に捨てよと命じられているけれど、なにも裸で捨てよとは言われてはいない。ならば小さな舟に載せて「捨てて」もよいではないか。
もう一つは、ナイル川のあの宮殿にほど近い所に、先先代のエジプト王の娘であり、先ごろまで摂政まで務められた女王が来られて水浴びをされる場所があるということでした。しかも、この王女様は政治力もあり、かつ優しい方で、今回の王のヘブル人の男児殺害命令に対しては心を痛めていらっしゃると聞くではないか、ということを思い出したのです。
 歴史学者によれば、暴君トゥトメス3世の時代、ハトシェプストという偉大な女王がいました。彼女はトゥトメス3世の継母で、彼がまだ若かった治世の前半、実権を握ったのでした。彼女は穏健な政治、平和外交に務めたそうです。
 トゥトメス3世にとっては、ハトシェプストは頭の上がらない継母であり、目の上のたんこぶでした。トゥトメス3世はハトシェプストを憎み、彼女の死後、自分ひとりで政治ができるようになると、彼女の事業の記念碑から彼女の名前を削り取り、彫像を破壊したということが考古学者によって報告されています。いわば、江戸の将軍にとっての水戸光圀のような立場にあったのが女王ハトシェプストでした。
 彼女は、トゥトメス3世の暴政に心を痛め、殺されていくヘブル人の赤ん坊たちをかわいそうに思っていらっしゃるという噂をモーセの両親は聞きつけました。赤ん坊の両親は、このハトシェプスト女王にわが子を託そうと決心したのです。ですから、恐らくこの赤ん坊モーセを助けたエジプトのパロの娘というのは、よくみる絵画にあるようなうら若い乙女ではなくて、たぶん五十歳ちかくの風格ある女性であったと思われます。

 希望が湧いてきました。母親はわが子を「パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを」入念に塗りました。もちろん、籠が沈んでしまわないためです。どれほど祈りながら、その作業をしたことでしょうか。「神様、この子をその御手をもって守ってください。」
一滴の水も浸入しないかごができると、いよいよ、「その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置」いたのです(2:3)。いつも王女様が水浴びに出ていらっしゃる場所に、ちょうどその頃あいに、「ナイル川に赤ん坊を捨てよ」という王の命令に従うのです。
そして、気が利く姉ミリヤムに、女王さまに対していうべきせりふを教えて、籠を見張らせました。姉ミリヤムは、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていました(4節)。「赤ん坊がエジプトの兵士に先に見つかりませんように」とほんとうにひたすら祈りながら待っていました。すると、やはり今日もパロの娘ハトシェプストがいつもの場所で水浴びをしようと、侍女たちといっしょにナイルに降りて来て、水辺を散歩してくるではありませんか(5節)。すると、王女さまは弟の泣き声を聞きつけました。侍女たちをやると、そのひとりが葦の茂みにかごを見つけました。赤ん坊の泣き声は、その中から聞こえてくるのです。王女の命令にしたがって、侍女たちは、それを取って来させました。
王女が泣き声がする籠の蓋をあけました。はたして男の赤ん坊です。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです」と言いました(5,6節)。彼女は暴君である弟王のこのたびのヘブル人に対する残虐な命令に胸を痛めていたのです。彼女は一目見て、「この赤ん坊は決して殺させない。わが子として育て守ってやりましょう。」と決心しました。断固たる決心でした。

 その様子を見て、姉ミリヤムが葦の茂みから飛び出して、王女さまに駆け寄ると深々と女王におじぎをして言いました。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」(7節)聡明な女王ハトシェプストには、すべてが了解されたにちがいありません。
『あなたは、この赤ん坊の姉なのですね。そして、あなたがこの子が呼んで来ようとしているうばというのは、あなたとこの赤ん坊のおかあさんなのですね。』と王女は、目でミリヤムに語りましたが、口には一言もそのことを出しません。口に出して言えば、赤ん坊も母親も危ないことになるからです。女王はただひとこと言いました。
「そうしておくれ」(8節)。
 それで、ミリヤムは行って、その子の母を呼んで来たのです。パロの娘は彼女に言いました。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」(9節)
 こうして赤ん坊は、宮廷から養育費までいただきながら、実の母親の乳房で育てられることになったのでした。実に、神様の知恵と導きであり、神のたまわった知恵によって信仰と勇気をもって行動した女性たちの成し遂げたことでした。

彼が実の母のもとで幼い日、育てられることができたということは、主なる神のご計画でした。もし、モーセが幼少期から偶像の神々の満ち満ちたエジプトの宮廷で成長したならば、彼はついに唯一真の神を知ることがなかったでしょう。三つ子の魂百までといいますが、彼は長じるまでイスラエル人の母のもとにいたからこそ、彼はアブラハム、イサク、ヤコブの神、唯一絶対の創造主である神を知ることができたのでした。そうして、後年に、苦難のなかにある同胞の救出のために用いられるという偉大は働きをすることができたのでした。

結び
 歴史の表舞台に立ち、歴史に名を残すのはたいてい男であり、モーセはそういう英雄の典型です。けれども、モーセが歴史の舞台に立つためには、その蔭で彼を産み、彼をいのちがけで守った神を畏れる母親、姉がいたのです。きょうの個所では、ヘブル人の産婆さん、モーセの母、姉、そしてエジプトの王女という女性たちの、おさな子をなんとしても生かすのだという信仰と勇気ある行動を見てきました。
 モーセを歴史に登場させ、イスラエルを救出し、旧約の啓示を与えるのは確かに神様のご計画でした。では、神のご計画はどのようにして実現していくのか。神は、ご自分の計画を遂行されるにあたって、神を畏れる者に期待し、お用いになるのです。神の計画は、それは神を信じる者たちの、信仰の行動によって実現していくものなのでした。それも神の摂理の御手のなかにあることなのです。私たちは歴史に名を残すような大きな者ではなく、小さな道端の石ころのようなものかもしれません。けれども、そんな路傍の石ころでも神を信じる勇気をもって生きるなら、神はもちいてみこころを遂行してくださいます。