苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

頭の一新によって

ローマ書12章2節
<新改訳>「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
 ローマ書は11章までは教理篇、12章以降は実践篇とよく言われる。12章1節で、キリスト者としての実践は、神に自らをささげた礼拝的人生であると言われ、続いて2節で、この世と調子を合わせず、「心を新たに」することが求められる。「変えられよ」と訳すか、「自分を変えよ」と訳すかで議論があるが、筆者が前々から気になっているのは、そこではない。「心」という訳語が適切なのかという問題である。いろいろ邦訳を見ると、前田訳「精神」以外はみな文語訳、塚本訳、新共同訳、そして新改訳ともに「心」という訳語を用いている。永井訳のみが「思」と訳しているのは注目に値する。「汝等の思を化へて新にせよ」とある。ただ永井訳はここに見るように独特の文字使いをしていて、一般の用には供しがたい。
 たしかに日本語では、「頭を一新する」とは言わず、「心を一新する」という言い方をする。けれども、実際の信仰生活において「心を一新する」と言われても、具体的になにをすればよいのかよくわからない。心の一新といえば、日本語の語感としては感情的・気分的な一新を思わせる。
 ところが、この「心」と訳されることばはヌースであって、これはハートでなくマインドを意味している。心というよりも頭である。永井訳の「思」が正解である。だから英訳聖書では、KJV,NKJV,RSV, ASV, NIV, NASBなど軒並みheartではなく、mindという訳語を採用している。邦訳は「頭を一新する」という表現が日本語としてしっくり来ないので、文語訳以来、「心」ということばを採用してきたのだろう。
 だが、この翻訳は日本人キリスト者の信仰理解を主観的・感情的なものにとどめてしまうことの一因になってきたのではなかろうか。日本の教会が教理教育を軽んじる原因にもなったのではなかろうか。もともと日本人の宗教性は、「なにごとにおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」という「絶対依存感情」風のものであるから、なおのことである。
 「頭を一新する」といえば、気分的なことではなく、思想・思考を一新するということであるから、聖書をきちんと学ぶこと、健全な教理をきちんと理解するという具体的実践に結びつく。文脈上も「頭の一新」であるからこそ、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ことになる。
 筆者は信仰の感性的側面を軽んじ知的側面のみを重んじるものではないが、安定感にかんしていえば知性は感性に勝っているのは事実である。たとえば、満腹か空腹かの違いだけで気分は上がり下がりするけれど、空腹であれ満腹であれ知性は「3+4=7」と告げることができる。だから、信仰生活において知性的な面をたいせつにすれば安定感を増すが、もし感性を土台にするならば信仰生活は不安定になる。信仰生活においては教理教育を基盤として、そこに美しい感性の花を咲かせるのが健全であると思う。
 原文が透けて見える翻訳を志す新改訳としては、むしろ「頭を新しくして・・・」とか「思考の一新によって・・・」としてはどうだろうか。


 小海でもようやく梅が咲きました

 新宿〜幡ヶ谷の玉川上水緑道の桜はもう八分は終わっていました

 玉川上水緑道の椿