苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

理にかなった礼拝

ローマ12章1節
<新改訳> そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 「霊的な礼拝」とはなんだろう。「霊的な」というから、プニューマティコスという単語が用いられているのかと思ったら、ギリシャ語本文ではロギコス(女性対格でロギケーン)ということばが用いられている。これはロゴスつまり言葉・論理・条理・理性という意味のことばの派生語である。だから、あれこれの註解書には、これはむしろ「理にかなった」と訳すべきだと書かれている。例の黒崎註解も「道理に叶へる」と訳すべきだとしている。それにもかかわらず、文語訳、口語訳、塚本訳、前田訳そろって「霊の」「霊的な」と訳しているのはなぜだろう。日本語訳に影響を与えたと思われる英訳聖書を見てみると、KJV, NKJVはreasonable(理にかなった)となっていて、RSV, NRSV, NASB, NIVはspiritual(霊的な)と訳している。
 これは筆者の推測であるが、近代合理主義の影響でreasonableということばには、無神論的・啓蒙主義的な色がついてしまったために、ロギコスの訳語としてしっくり来なくなってしまったのかもしれない。また啓蒙主義の反動として起こったロマン主義の神学版である自由主義神学の影響もあるかもしれない。それで、reasonableという訳語が避けられるようになったのではないか。日本語でもズバリ「合理的な礼拝です」と直訳したら、顰蹙を買うだろう。しかし、「霊的」ではさっぱり原義が伝わってこない。
 「理にかなった礼拝」とは、いかなる意味で理にかなった礼拝といえるのか。二つの面からそれはいうことができよう。第一は、パウロが11章まで明快に述べてきたように、神の偉大な恵みがキリストにあって注がれたのだから、これに応答するには、献身をもって応答することが理にかなったことである。第二に、しかし、キリストが自ら血を流して供え物となられた以上、もはや罪ゆるされるために血を流す供え物は必要ないので、生きた供え物として自らを主にささげることが理にかなっている。「霊的な礼拝」ではなんだか煙に巻かれたようで、パウロが伝えようとした内容が伝わらない。
 この一節に関しては、新共同訳「あなたがたのなすべき礼拝」が原語の意義を正確に伝えている。

<新共同訳> こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 筆者としては、トランスペアレントな訳を志す新改訳にあっては、さらにはっきりと「理にかなった礼拝」と訳してほしいものだと思う。「霊的な礼拝」では原文がまったく透けて見えない。神への礼拝と礼拝的生活は、カインのささげもの以来、「霊的」と称して主観的な「俺流」「私流」のものに流れがちなものであるから。