苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「だから・・・」の省略はいかがか?・・・マルコ2:28

(イエスは)また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(新改訳2:27,28)

 黒崎新約註解の六邦訳付きでは、ひとつだけが他の訳とちがっていると、たいへん目立つ。一例はマルコ福音書2章28節である。

文語訳 「然れば人の子は安息日にも主たるなり」
口語訳 「それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
塚本訳 「だから人の子(わたし)はまた安息日の主人である。」
新改訳 「人の子は安息日にも主です。」
前田訳 「それゆえ、人の子は安息日の主でもある」と。
新共同 「だから、人の子は安息日の主でもある。」

 新改訳のみが「ホーステ」の訳語として「然れば」「それだから」「だから」「それゆえ」にあたる語を訳出していない。これは意図があってのことだろうか。新改訳が影響を強く受けているといわれるNASB(New American Standard Bible)を含め、代表的英訳聖書を参照しても、それぞれtherefore, so, andなどと訳出されている。なぜ新改訳のみが、「ホーステ」を訳出しなかったのだろう。
 前節2:27を見ると、主イエスは「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」とおっしゃって、続いて、「人の子は安息日にも主です。」と言われている。もし新改訳の訳者が意図的に「ホーステ」の訳出を避けたとするならば、(当然意図的だと思うが)それは、前節とつなげて「だから」などと訳した場合、「人の子」とは、あるリベラルな傾向の人々がそうしたがるように、単に「人間」を指すというふうに解釈される可能性を残すからであろう。ここだけを読めば、「安息日は人間のために設けられたのだから、人間が安息日の主である」つまり、安息日は人間の道具であるという解釈も可能であろう。
 けれども、マルコ福音書全体の中でこの2章28節以外での「人の子」ということばの用法をすべて調べてみると、罪を赦す権威を持つイエスを指す場合(2:10)、イエスの受難と復活の予告(8:31、9:9,12,31,10:33,45、14:21,41)、イエスの栄光・再臨に関する場合(12:26,27,29,14:62)であって、いずれもメシヤとしてのイエスを指していて、一件も一般に人間を指すばあいは存在しない。だとすれば、マルコ2章28節の「人の子」のみを一般に人間を指すという解釈は不適切で、「人の子」という呼称はダニエル書7章13節の終末的なメシヤから来ているというのは確かなことだろう。そんなわけで、誤解を招きそうな「ホーステ」の訳出を避けるべきだというのが新改訳の判断であったのだろうと思われる。そうして、イエス安息日律法の解釈についての律法授与者としての権威をあきらかにすることを意図したのであろう。神学的予見が聖書翻訳に影響を与えた例であると思われる。 
 ただ「ホーステ」の訳出を避けたことは、口語訳や新共同訳と自らを区別して、ことさらに「原典にできるだけ忠実であること」を第一原則とし、「文法的に正確であること」を第二原則として、「原文が透けて見えるような訳文」を目指すという新改訳の翻訳姿勢にふさわしいものであったのかというと、疑問が残る。翻訳の第四原則「主イエス・キリストの占められるべき地位、みことばが主にささげている地位を正しく認めること」にしたがった「ホーステ」の省略なのだということになるだろうが、これはちょっと勇み足だったのではなかろうか。
 新改訳聖書の翻訳原則はその扉に記されている。