苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく(1)

 ある人が、「イエス様を信じたときに過去・現在・未来すべての罪が十字架につけられて赦されたのだから、クリスチャンはもう『私の罪を赦してください』と祈るべきではない。『罪を赦してくださってありがとうございました。』と祈るべきなのだ」と主張していた。
 だが、主イエスは山上の説教において、「主の祈り」をお教えになり、弟子たちが日々祈る祈りのなかで「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ」と祈りなさいと教えられた。そして、世々の教会はそのように祈ってきた。キリスト者もまた「罪を赦してください」と祈るべきなのである。
 では、「主イエスを救い主として受け入れ信じたとき、過去・現在・未来のすべての罪が赦された」というのは、まちがいだということになるだろうか。
 この問題に答えを出すには、個々の律法に対する個々の罪という次元でなく、神との基本的関係という次元で罪を把握しなければなるまい。イエス・キリストを救い主と信じて、キリスト者となったとき、その人の神との関係が従来の関係とはまったく変わった。かつて孤児だった者が、父を得たのであり、父のもとで子としての扱いを受けることになったのである。この神との基本的関係の変化を、上記の人は「過去・現在・未来のすべての罪が赦された」と表現するわけであり、その表現にはある程度の妥当性があるといえるだろうが、誤解も招きうる。
 孤児であった者が父を得て、父との交わりのなかに生きるようになっても、なお罪の性質が残っているために、罪を犯すことがある。そのたびに、お父さんごめんなさいとおわびする必要がある。それが、主の祈りにおける罪の赦しの求めである。だが、父はそんなことがあることは承知の上で、その子をわが子として迎えているのである。その意味では、父は過去・現在ばかりかその子が犯す未来の罪までもあらかじめ赦して受け容れてくれたということができる。