苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

伝道者の召し

  本日東京基督教大学東京基督神学校の卒業式に出かけてきた。実は、自分の卒業以来初めてのことである。教え子たちの卒業なので、ぜひと思った次第。
  大きなチャペル、巨大なガルニエ・オルガン、大学のほうには振袖・袴姿の学生もいたりする華やいだ雰囲気。かつての神学校の卒業式とは様変わりであるが、うわさには聞いていたから驚きはしなかった。晴れがましい卒業式は、ほとんどの卒業生が赴く宣教の現場の現実とは、かなり落差があるようにも思える。
 けれども、そうであればこそ、卒業式は天の神の栄光を垣間見るような式であってよいのかもしれない。ちょうど、主イエスが十字架へと続く荊の道に旅立とうとするとき、天が開けて御父が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と声をかけくださったように。
  「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)
  昨年6月4日神学校チャペルでお話したことを特に卒業生のために再録しておきたい。


 誇りと負債のゆえに

<聖書>         
 「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」ローマ1:1

 「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」ローマ1:14,15

 「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」1コリント9:14-18                    
1.「召し」ということば

 新約聖書で召し、召命ということばは、二つの意味で用いられています。
(1)救いへの召し、神の民への召し
 召しクレーシスということばは、ひとつには、救いへの召し、すなわち神の民としての召しという文脈で用いられています。
「神の賜物と召命はとは変わることがありません。」(ローマ11:29)
これは、イスラエルの救いにかんして言われていることばです。
次の二つは、それぞれコリント教会、エペソ教会の異邦人キリスト者の救いに関して用いられた、「召し」クレーシスということばです。
「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。」1コリント1:26
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」(エペソ1:18 ほかにピリピ3:14など)。
 召し(クレーシス)とは、「呼ぶ」という動詞カレオー(不定形カレイン)から来ています。伝道者の語る福音のことばと聖霊の内的な働きによって、私たちは召されて救われ神の民とされたのです。
(2)使徒・伝道者への召し
 もうひとつ、「召し」ということばが用いられているのは、使徒として、伝道者としての召しということです。
「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」(ローマ1:1)、
「神のみこころによってキリスト・イエス使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから」(1コリント1:1)
 ここで「召され」と訳されていることばは、クレートスということばです。クレーシスと同じようにカレオー(呼ぶ)という動詞から出たことばです。注目すべきことは、新約聖書において神の召しということばが用いられる職務は、ただ伝道職にかんしてのみであって、その他の職業に関しては神の召しということばが一度も用いられていないという事実です。
 プロテスタント宗教改革のなかで「職業召命観」ということばが用いられるようになりました。それでみなさんご存知のように、職業を意味することばのなかに、ドイツ語でBeruf、英語でcallingといった、どちらも「呼ぶ」という意味のrufen, callということばから来たことばがあるわけです。
しかし、私たちが改めて聖書に立ち返って確認したいのは、聖書では、一般の職業について召命ということばを用いた例はひとつもないという事実です。職業召命観というのは、神学的な演繹によって導き出された概念であるけれども、聖書のなかに直接的な根拠があるわけではないのです。ではなぜ特に聖書に立ち返ったはずのプロテスタント教会は、職業召命という理念を打ち出したのでしょうか。

2.職業召命観の歴史的意義と限界
(1) 歴史的背景と意義――中世カトリックの聖俗二元論に抗して

 私が18歳で教会に通い始めたとき、導いてくださった改革長老教会東須磨教会牧師の増永俊雄先生は、岡田稔『カルヴィニズム概論』という本を貸してくださいました。それはアブラハム・カイパーの『カルヴィニズム』という本を紹介したもので、世界観としてのキリスト教について教えている本でした。私の記憶が正しければ、その本の中には、異教主義(パガニズム)と、ローマカトリシズムと、近代ヒューマニズムと対照して、カルヴィニズムがいかなるものであるかを教えていました。
 特に、今日とりあげたいのは、ローマカトリシズムの聖俗二元論です。ローマカトリックにおいては、教会とは聖職者階級のみを指しており、一般信徒は俗なる者とみなされています。聖なる職業は司祭や修道士のみであって、一般の職業は俗なる者と見做されているのだということでした。一週間を分けるならば、主の日のみが聖なる日であって、月曜から土曜までは俗なる日ということになります。これを読んだ当時、私の頭に浮かんできたのは、ゴッドファーザーという映画の宣伝でした。中学生のころでしょうか、マーロン・ブラントがマフィアのボスという役柄を演じてアカデミー賞を取りました。映画コマーシャルでテレビに映し出された場面のひとつは、彼は教会に出かけて、ミサにあずかる前なのでしょう、告解室で司祭に向かってざんげをしている場面です。そして次の場面はマシンガンを撃ちまくって敵と抗争している場面です。ローマカトリックは聖俗二元論なのだということを岡田先生の本に学んで、なるほどと思いました。聖俗二元論において、日曜日は聖なる日、月曜から土曜までは俗なる日々なのです。
 これに対してプロテスタンティズム特にカルヴィニズムは、世界全体が神の被造物であり、生活の全領域において神の栄光を顕すべきなのだから、日曜から土曜日まですべてが聖なるものであるとし、職業もまたみことばに仕える教職のみならず、お百姓も大工さんも学者も八百屋さんも医者もすべて聖なるものであると主張するようになったのです。聖俗二元論に対して、聖一元論とでも呼べばよいでしょうか。この職業召命という教えのゆえに、どれほど職業人は励ましを受け、勤勉になったでしょうか。神父や修道士でなくても、自分は百姓仕事で、神の栄光を表わすことが出来る、私は大工さんとして・・・と。カイパーは、これがカルヴィニズムの広がった地域の産業が、カトリック圏のそれに比べて著しく発展した理由であると指摘しています。たしかに、その時代的文脈においてプロテスタントの主張は意義有るものだったと思います。
 
(2)職業召命観の限界――世俗化の波の中で
 しかし、左に振れた振り子を引き戻そうとするとき、しばしば右に強く引きすぎることがあるように、ローマの聖俗二元論の誤りを正そうとするあまり、プロテスタントは反対の極端を主張した観があります。すなわち「職業召命観」は、厳密な意味で聖書的概念かというと、疑問が残るのです。聖書は伝道職以外の職務について召命ということばを決して用いていないからです。
「職業召命観」の弊害は、聖書が啓示する伝道者への召しの特殊性を見落とさせることです。近代になりヒューマニズムの流れの中で、世界は急激に世俗化してきました。ここで私が「世俗化」ということばで意味したいのは、人々が神や教会や天国への関心を失い、ただ「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、そして何が自己実現の道か」といった欲望の満足がすべてであるという生き方をするようになることを意味しています。職業意識も世俗化されて行きます。職業の目的は、まず給料を得て生活を支えること、そして、その職業を通して自己実現を図ることというふうになるわけです。キリスト者はほんらい自己実現でなく、みこころの実現を求めるものです。日々「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのですから。
職業召命観によって、牧師や伝道者もまた、多くの職業のうちの一つであるということになると、一般の職業観が世俗化するとき、牧師伝道者も世俗化されることになります。「俗一元論」に陥るのです。一般に職業が、自分の生活のためと自己実現のためにするものであるように、牧師・伝道者という職務も、生活のため自己実現のための一つの就職にすぎないということになってしまう危険があります。雇われ人の羊飼いに堕してしまうのです。
 
3.伝道者の召しの特徴2つ

 聖書は、職務については、教会教職のみを「召し」と呼んでおり、一般の職業については召しということばは用いていません。たしかに聖書が、信徒すべてに対して、神様に献身した礼拝的生活をすることを求めていることは事実です。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
 聖書的用語法に従って正確に表現するならば、すべてのキリスト者は献身者であるべきですから、あらゆる職業を通して神の栄光を表わすべきですし、あらわすことができます。しかし、すべてのキリスト者が「召し」としての職務を受けているわけではありません。一般的な職業について聖書は決して「召し」ということばは用いないのです。
では、一般的な職務と、神の召しである伝道職のちがいはなんでしょうか?いくつか側面がありましょうが、今日の本文から二点だけ取り上げたい。
(1) たましいへの負債意識
 一つは、滅び行くたましいへの負債意識です。
「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。」(1コリント9:16−17)
「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」(ローマ1:14,15)。
 借金したままで返済していないと、気が重くなります。伝道職に召されている人は、滅びゆく魂に対して伝道していないと、気分が晴れない、元気が出ないのです。伝道者にならず今の仕事をしているのでは、居ても立ってもいられない。滅び行く魂に対する負債意識は、神様があなたを伝道者として召していらっしゃることの大事なしるしの一つです。
伝道者として召されたならば、世間で評価されるほかのどんな職業にも満足できなくなります。医者をしていて満足ならその人は医者をしていればよいし、大銀行の行員をしていて満足ならその勤めをしていればよいし、大学教授で満足なら教授をしていればいいし、弁護士で満足ならその人は弁護士をしていればよいのです。ですが、もし神様があなたを伝道者としてお召しになったなら、世間的にどんなに評価される職業であったとしても、自分にとってはそれらはちりあくたになってしまうのです。

(2)給料がでなくてもやらなければならない
 伝道職の召しの特徴の第二点は、たとえ給料を得られなくても、神の召しであるゆえにやめるわけにいかないということです。一般の職業の場合、その仕事から給料を得る権利があり、給料が与えられないならば転職する権利もあります。これに対して、伝道者・牧師はどうか。その働きから給料を受ける権利はあるという点では同じです。パウロは、そのことを世間の仕事と報酬の常識、旧約の律法における祭司の報酬の原則、そして主イエスのことばという三つのことから述べています(1コリント9:1−14)。したがって、教会が伝道者の生活を支えることは教会にとって幸いな特権であり義務でもありますから、伝道者をしっかり支える教会は祝福されるのは事実です。
 けれども、伝道者の側の覚悟という面からいうならば、伝道者は、たとえ無給であったとしても、伝道をやめるわけには行かないという点にあります。実際、パウロはその権利を少しも用いませんでした。
「しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。」(9:15)
 パウロがなぜこんなに激しい口調で書いているかといえば、コリント教会には不埒な人々がいて、「パウロは金儲けのために伝道しているのだ」などと言っていたからです(Ⅱコリント12:16)。そこで彼はコリント教会における働きに関しては、一銭も要求せずに、みことばの働きをしたのです。金銭のためではなく、主からの召しのゆえに伝道しているのだという誇りをそういう不埒な人々に奪われるよりは死んだほうがましだったのです。
もし伝道者の召しを受けた者が、給料が出ないからといってその召しにそむいて伝道者の務めを放棄したら、その人はわざわいです。なぜなら、伝道者を召したのは、神ご自身であるからです。パウロに対する報いとはなんだったか。
「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」(1コリント9:18)
パウロは、敬虔な祈りをもって捧げてくださった他の地方の諸教会の支援を得、自分の蓄えを費やし、昼も夜も天幕作りをしながらコリントで伝道しました。そのことは使徒の働き、書簡のあちらこちらに書かれています(Ⅱコリント11:8、使徒18:3;20:34)。伝道者がもしその働きから給料を得られない状況に置かれているならば、諸教会からの支援を得、あるいは自分の蓄えを費やし自分の手で生活費と伝道費をつくるなりして伝道をするのです。
 私が所属する日本同盟基督教団は、フランソン・スピリットといって、他の団体の宣教師たちが入っていかない宣教困難な山間僻地に宣教師たちが入り込んで犠牲を惜しまずに伝道をしました。1891年(明治24年)に同盟最初の宣教師15名が横浜本牧ふ頭に上陸しました。おりしも前年に教育勅語が発せられ、内村鑑三不敬事件の嵐が吹き荒れた年です。彼ら宣教師が入っていったのは仏教王国飛騨高山、伊豆七島、北海道アイヌという僻地でした。戦後、同盟教団は都市部の伝道をも重んじるようになったものの、地方伝道を大事にするという気風があるので、過疎地の教会にも相当無理をして牧師を配置しています。その無理はだれが背負うのでしょうか?教団のいくばくかの支援はありますが、その無理はおもに牧師と牧師家族が背負っているのです。そういう状況下では、小さな群れの伝道者とその妻たちは自らの手でパウロのように働くことによって教会の財政を支えて教会から謝儀を受けてお仕えしています。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。」(ルカ6:20)と主を見上げて感謝して奉仕しているのです。同盟教団にかぎらず、日本の小さな群れの先輩たちの多くもそうでしょう。こういう名もない伝道者たちの信仰と心意気と献身によって、日本の宣教は成り立ち、かつ前進しています。
 少し昔の話になりますが、これはなにも特別なことではなく、コンスタンティヌス帝が回心してキリスト教を公認し(313年)、やがてキリスト教が国教化され牧師が国家公務員になるまで、古代教会の伝道者たちが経験したことでした。旧約時代の祭司たちは国家公務員でしたからその生活は保証されましたが、新約時代の伝道者たちは神の民のいない異教世界の中に切り込んで福音を伝え教会形成していくのですから、伝道者の召しを受けたけれども、生活の保証はないということはままあることです。
 しかし、伝道者たちは、神様がこの私のような罪人をゆるしてくださったばかりか尊い十字架の福音の伝道者として召してくださったという誇りと、滅び行く魂への負債意識のゆえに、その務めを果たし続けています。そして幸いなことに、主の召しに従う伝道者には、すべての必要を満たしたまう神が実際についていてくださるのです。そして神の国を第一に求める者の生活は、神が保証してくださいます。主は生きておられます。

結び
 みなさんは牧師伝道者になろうと、その人生を主に捧げて、この神学校に学んでこられました。いよいよこれからが本番です。みなさんと私はもはや教師と学生の関係ではありません。同じ主の畑で働く同労者です。主はおっしゃいます。「立ちなさい。さあ、行くのです。」(マルコ14:42)

注>再考職業召命説http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090610