苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

僕の青春はカエルだった

 中学二年生から高校三年生まで、なぜかモリアオガエルを追っかけまわしていた。当時、住んでいた神戸の須磨に禅昌寺という寺があって、境内の幼稚園の小さな池にモリアオガエルが生息していた。中学2年生の春、第二理科部(生物部)だった私と友人のK君とI君は手持ち無沙汰にしていた。1年生で中学校構内の草花の押し花標本は作り終わって、次の研究対象をナメクジにしていたのだが、その飼っていたナメクジが事故で全滅してしまった直後だったからである。
 そんなある日、だれかがメスのモリアオガエルをつかまえて理科室に持ってきて置いてあった。アマガエルに似てはいるが、はるかに大きく、アマガエルのように目の後ろの黒いクマドリがない。虹彩がきらきら赤っぽい目でこちらを見た。ドキリとした。一目ぼれだった。
 五月後半になるとモリアオガエルは真夜中に産卵した。ふつうのカエルのように水中に産卵するわけでなく、池にせり出したカエデの木の枝に産卵した。真っ白い泡のなかに200個から250個の卵が産み付けられ、二週間ほどするとぽたりぽたりとオタマジャクシになって池に落ちてくる。毎年、その季節になると、そぞろがみの物につきて心を狂わせ、件の池に出かけたり、ときには、京大植物園の池にまで出かけたりしたものだった。コロコロ、コロコロという雄たちのきれいな声が夜の池に響いた。でもモリアオガエルは気まぐれで、なかなか産卵の場面には立ち会えなかった。
 あの禅昌寺の池はどうなっているんだろうと思って、ネットで調べてみたら、今は幼稚園が大きく立派になって、池は埋められてしまったらしい。モリアオガエルたちはどこに行ってしまったのだろう。K君とI君とはずっと音信不通だ。 

写真は藤本邦彦さん「朝来の自然」から→http://youdo.blog66.fc2.com/blog-category-6.html


<追記>
 2019年になってフェイスブックでK君、そしてI君と交流が再開しました。50年ほどの時を隔てて。フェイスブックは、こういう意味ではすごい威力である。