苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

健全な精神は健全な肉体に?

 オリンピックになると、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という格言が引用される。しかし、古代ローマの風刺詩人ユウェナリスが言ったのは、「願わしきは健全な肉体に健全な精神が宿ることOrandum est ut sit mens sana in corpore sano.」という願望のことばである。ユウェナリスは、うわべを飾るために神話の神々の彫像のように筋肉ばかりを鍛え、心が腐りきっている古代ローマの風潮を皮肉ったのである。
 実際、「健全な精神は健全な肉体に宿る」とはかぎらない。運動部の陰湿な暴力事件やいじめは昔から絶えることがない。競技会の成績を偶像視する指導が、選手たちの精神をむしばむのはあたりまえのことであろう。「不健全な精神が健全な肉体に宿っている」のである。
 それどころか、今日では勝つためには精神ばかりか肉体までも破壊している。こうなると、「不健全な精神が不健全な肉体に宿っている」状態である。ドーピング問題など、その典型であるが、薬に手を出さないまでもトレーニングのしすぎで健康を害する選手は山ほどいる。たとえば、信州では小学校からスピードスケートをしすぎて外反母趾や腰痛を一生抱えてすごすという人が結構いる。いったい何のためのスポーツなのか?と首を傾げたくなる。
 逆に、肉体が健全なうちは無反省で傲慢にすごしていたけれど、不自由になったとき初めて自らの限界に気付いて、精神を健全にされたという人も時折いる。「健全な精神が不健全な肉体に宿る」ということもあるのだ。どうやら、健全な精神と健全な肉体との間には、なんら必然的な結びつきはないというのが真相のようである。