苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中身が大事です

                使徒7:17−53
                2010年2月21日 小海主日礼拝
はじめに
 黄金のお皿に盛られた腐ったごちそうと、普通のお皿に盛られたおいしいごちそうと、どちらがいいでしょうか?(お皿は提供しませんよ)普通のお皿に盛られたおいしいごちそうですね。神様は、私たちの信仰のうわべでなく、中身を問われます。
 ステパノのユダヤ教当局との議論の焦点は、律法と聖なる所(幕屋と神殿)でした。律法と神殿が与えられていることが、律法学者と祭司たちの誇りであり、自分たちが聖なる神の特別の民であることをしるしだと思っていました。けれども、ステパノは説教の前半では「信仰の父アブラハム」の時にはまだ律法も神殿もなかったのだから、律法と神殿は信仰の本質ではないのだと指摘しました。次に、律法と幕屋〜神殿が与えられた後のことに、ステパノは言い及びます。

1 律法について

(1)律法が与えられているだけでは
 ステパノは神がモーセを通じて、律法をお与えになったことを確認しています。38節。ステパノは律法が神のことばではないから軽んじて良いと言っているのではないのです。モーセはまぎれもなく神が選び遣わした解放者であり、神がモーセにみことばを授けたのも事実です。新約の教会は、律法、旧約聖書の権威を否定しているわけではありません。主イエスご自身も、おっしゃいました。マタイ5:18「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」
 では、ステパノは律法にかんして何が旧来のイスラエルの宗教の問題であると指摘しているのでしょうか。それは、イスラエルが指導者モーセと律法を神から授かりながら、それに従わなかったということです。彼らは偶像崇拝にふけり、天の星星を礼拝していたではないかと言うのです。39節-43節。
「また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの父祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。 ところが、私たちの父祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、 『私たちに、先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから』とアロンに言いました。
そのころ彼らは子牛を作り、この偶像に供え物をささげ、彼らの手で作った物を楽しんでいました。 そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の星に仕えるままにされました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。
  『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、
  ほふられた獣と供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
  あなたがたは、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。
  それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。
  それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す。』」
 パウロのことばでいうならば、ローマ2:17-24です。「 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。神のことばである律法が与えられてはいるが、ユダヤ人は律法に従ってこなかったではないか。それでは律法を誇ることに意味はありませんというわけです。

(2)律法が与えられている意味
では律法が与えられていることの意味とはなんでしょうか。あるいは、律法の用法とはなんでしょうか。第一は、律法の養育係としての用法といわれます。
「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」ガラテヤ3:23,24
律法は人間に己の罪を悟らせて悔い改めに導き、「神様、罪深いわたしを赦してください。」と神の恵みにすがりつかせることです。律法をほんとうに自分自身に対して語られる神様のおことばであると真剣に受け止めるならば、私たちは自分の罪を悟らざるを得ません。「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない。」「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」「主の御名をみだりに唱えてはならない。」「安息にをおぼえてこれを聖なる日とせよ。」「あなたの父と母を敬え。」「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「盗んではならない。」「偽証をしてはならない。」「隣人のものを欲しがってはならない。」・・・心の底まで見られる神様を意識してこれらの律法を読んで、私は無罪です、清廉潔白ですとあなたは言えるでしょうか?
律法の働きの第二は、律法の規範的用法と呼ばれます。神に罪赦された者が、感謝をもって及ばずながら律法を基準として生きるということです。これはその生き方でもって、神様を喜ばせ、神のきよさ正しさといったことを異邦人に悟らせるのです。
ところが、ステパノに言わせれば、当時のユダヤ教では、律法はあっても、それが正しく用いられてはいませんでした。律法を誠実に受け止めずに、守らなかったときにもことばの上で守ったことにする法理論というかへ理屈をこねるための律法主義が横行していたからです。誓っても実行しないですむ理屈を工夫したり 、親孝行をしないですむように律法の曲解がなされたりしていた と福音書にあります。精密に律法の研究はしていても、神の命令に愛と誠実をもって従おうとしないので、そこに生じたのは、ただ偽善だったのでした。
神の律法が神の律法として機能するために大事なことは、私たちが律法に誠実に向かい合うことなのです。神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することが律法の要諦であることをわきまえて、律法を行なおうと努力することです。真剣に向かい合うときにのみ、私たちは自分の限界を知り、そして神の恵みを知るでしょうし、また、神の御霊によって実を結ぶこともできるのです。

2 聖なる所

 聖なる所についてはどうでしょうか。7:44 「私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。」とあるように、たしかに神はモーセに啓示を与えて、心の目に見せられたとおり幕屋を作りなさいと命令されました。
 そして神は幕屋にご自分の臨在を現してくださいました(出エジプト40:34「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。」)幕屋はイスラエルの民に神とともに生きることを教えるための象徴であり実物教材でした。ダビデの次のソロモンの時代には、巨大で立派な神殿も建立されました。このときにも、主は栄光の雲をもってご臨在を示されました。第二歴代5:13,14「5:13 ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち【主】の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである。」
 では、イスラエルの民が神殿にかんして犯したあやまちは、何だったのでしょうか?それは、あたかも人間の都合で神殿を利用できると考えたことでした。ひとつの例を挙げると、イスラエルは神殿の中心にある契約の箱を、ある戦のとき、契約の箱を持って来ました。まるで秘密兵器のように神様を利用しようとしたのです。また、主イエスの時代になると祭司たちはエルサレム神殿を利用して、多くの収益を上げるようになっていました。地中海世界全体から、ヘレニズム世界全土から多くの人々が参詣してくる客がいたからです。しかし、イエス様は、エルサレムに来られたとき、まず神殿に入ってこられて、まず宮きよめをなさいました。「『わたしの家は祈りの家を呼ばれる』とあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」と。
ステパノは大胆にも次のように断言しました。
「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。」と。その根拠として、ステパノは預言者イザヤの書から引用しています。
『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。
 あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。
 わたしの休む所とは、どこか。
  わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』(7:48-50)
 しかし、ステパノが断言したことは、実は、神殿を造ったソロモン王自身、その奉献式のときに次のように言っていたことなのです。
「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、【主】よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。」(第二歴代6:18,19)
 神に示されて神殿を建立したソロモン王自身、このような人間が造った神殿に、万物の創造主であるまことの神を住まわせることなどできないのだとわきまえていたのです。さすが、ソロモンの知恵と称されるだけのことはあります。たしかに神様は、「あなたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる」とおおせになって、イスラエルのうちに住み、イスラエルとともに歩むということを示すために、彼らのうちに聖なる幕屋また神殿を建立することを許してくださいました。けれども、人間が、その建物の中に神様を閉じ込めて好きに利用できるというような意味で、神様を神殿に住まわせることができるなどと考えたとすれば、それは不敬虔です。たしかに神が神殿を作らせ、そこにご自身の臨在をあらわそうと、恵みをもって、おっしゃってくださったのですが、神はあくまでも無限のお方であり、また、自由なおかたであり、主権的なおかたです。天地万物の創造主がまことの神なのですから。

3.心に割礼を

 今、ステパノの心のなかで、宮きよめを行われた主イエスが叫んでおられるようです。
 律法学者は精緻な律法解釈を展開していました。祭司たちは荘厳できらびやかな神殿においてしめやかに祭儀を行なっていました。けれども、神の前では決定的に欠けているものがありました。それは心でした。神を畏れる悔改めの心、神に従おうと切望する愛の心でした。だから、ステパノは叫びました。「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです 。」と。そして、主イエスがおっしゃったように、あなたがた祭司たち、律法学者たちは旧約の時代に神が派遣した預言者たちを迫害し殺害した、かたくななイスラエルの指導者たちの霊的な子孫なのだと厳しく指摘したのです。預言者たちは、「正しい方」キリストが来られることを預言したけれど、彼らは預言者を迫害しました。そして、実際に正しい方キリストが来られると、あなたたちはキリストを裏切り殺してしまったではないかというのです。「あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」(7:51-53)

結び
 いったいなんでこんなことになってしまったのでしょうか?祭司たちは神殿運営に一所懸命になって神殿礼拝を整備しつくしましたし、律法学者たちは律法を研究し、膨大な律法解釈書をあらわしました。しかし、それは的外れな熱心だったのです。なにをどう間違えたのでしょう? 物事のうわべを整え立派にすることに一生懸命になるあまり、自分自身の中身をおろそかにしたからです。いわば豪華な器を用意するのに熱心なあまり、料理が腐っているのに気付かなかったのでした。
 しかし、もし私たちが、こういう個所を読んで、祭司たち律法学者たちはとんでもない連中だというふうにさばいて満足するとしたら、私たち自身が祭司や律法学者と同じ過ちを犯していることになるでしょう。むしろ他人事でなく、私はステパノの非難に堪えられるだろうか、主イエスの指摘に該当するところはないだろうかと吟味すべきでしょう。
 私たちは、祭司・律法学者のように神様からみことばをいただいています。ヘロデの大神殿にはとうてい比ぶべくもありませんが、きれいな会堂を与えられています。特に、今の時代は、聖書を各人がもつことができるという贅沢の許された時代です。しかし、神のことばをこのように所有していながら、どれほどそれに耳を傾けて、そして従っているだろうか?と、私は今日のステパノのことばを読んで迫られました。うわべは敬虔そうにふるまいながら、中身として悔い改めの実がないということにならぬようにしたいものです。また美しい会堂をもちいて、私たちは神を畏れ、互いを真実に愛し合う礼拝共同体・宣教共同体として歩みたいものです。
 みことばに誠実に取り組み、聖霊によって罪を指摘されたならば、ただちに「私は罪を犯しました」と告白して悔い改めることです。そして、「私のうちに聖霊さまが満ちてくださって、私をきよくしてください。御霊の実を結ばせてください。」と信じて祈りつつ歩みましょう。中身が大事です。