苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

2・11から5・3へ

                  1列王記12:25−33

                  2010年2月11日 北陸KGK講演その2

 「教師の友」から建国記念日のこと
戦時下の日本のプロテスタント教会では、二月十一日の紀元節(今でいう「建国記念の日」)を前にした主の日、次のような教会学校教案が用いられたことがあった。
「 紀元節(有難いお国)
[金言]義は国を高くし罪は民を辱しむ。(箴言十四・三四)
[目的」1.紀元節を目前に控へ、祝ひの意味を判らせる。
2.正義の上に立って居る祖国を知らしめて童心にも、日本の子供としての自重と、神の御護りによってこそ、強くて栄えることの出来ることを知らしめる。
[指針」皇紀二千六百二年の紀元節を迎へ、今日、展開されて居る大東亜戦争の使命を思ふ時、光輝ある世界の指導者としての日本の前途は、武器をもって戦ふより、遥に至難な業であることを痛感するものであるが、手を鋤につけた以上、万難を突破して完遂せねばならぬ唯一の道でもある。
 翻って子供を見る時、小さい双肩に、重い地球が負はされて居る様にさへ感ずる。今こそ、揺るぎない盤石の上にその土台を据えねばならない時で、吾等に負はされて居る尊い神の使命である。祈って力を与へられたい。
「教授上の注意]大和の橿原神宮の御写真か絵及びその時代の風俗を表はす絵、金鵄勲章の絵か写真などを用意して見せてやり度い。時間があれば勲章を作らせてもよい。(後略)」

 これは「皇紀二千六百二年(西暦一九四二年、昭和十七年)二月号」の『教師の友』(日本基督教団日曜学校局)に記されたものである。真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したのが前年の十二月八日のことである。あの時代がいかに異常な時代であり、国家神道キリスト教会をもいかに深くまでむしばんでいたかということが伝わってくる。各地域教会で、この教案がどの程度そのまま用いられたかは定かではないが、少なくとも教会学校教師たちはこれに基づいて子どもたちに神社参拝を奨励し、天皇の子どもとしての戦意高揚がはかられたのである。
 ちなみに、紀元節というのは、天照大神の孫ニニギノミコトが九州の高千穂の峰に高天ケ原から降臨し、179万2470余年後、その子孫である神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)が東へ東へと攻め上って大和の橿原で初代天皇神武天皇として即位した日を2月11日として記念する祭りであった。敗戦後、紀元節は一九四八年(昭和二三年)軍国主義天皇制の象徴であるこの祝日は廃止されたが、一九六六年(昭和四一年)「建国記念の日」として復活させられた。
 
1.ヤロブアムの国家神道政策(1列王記12:25−33の釈義)

 古代イスラエル王国は紀元前1053年に始まり、初代の王はサウル、次にダビデ王が立つ。ダビデは都をエルサレムに定め、その息子ソロモンはエルサレムに神殿を建てた。エルサレムイスラエルの民の信仰生活の中心となり、イスラエルは、エルサレム神殿に定期的に参詣していたのであった。
 ところが、ソロモン王の死後、王国は南北に分裂することになった(933BC)。南北朝時代の始まりである。ソロモンの息子レハブアムは南ユダ王国の王となり、北イスラエル王国の王はヤロブアムとなる。南ユダ王国の都はエルサレム、北イスラエル王国は都をシェケムに定めた。
 ところが、北イスラエルの王ヤロブアムには恐怖があった。北イスラエル王国の国民は、南ユダ王国の都エルサレムへと神殿で祭りがあるごとに出かけてしまう。過越しの祭りや大贖罪の日など、ことあるごとに敬虔な民はエルサレムへと出かけてしまう。ヤロブアムはいずれ民心は自分を離れてユダの王のほうにいってしまい、自分は殺されてしまうのではないかと恐れた(26、27節)。
 ヤロブアム王は腹心の部下たちと相談して、まず出エジプト伝承にも登場した金の子牛神話に基づいて偶像(出エジプト32章)を造り、建国神話を捏造した。イスラエルの民をエジプトから救出し、この地に導いたのは、実はこの子牛の神々であったという建国神話である(28節)。
ついで、北イスラエル国家宗教の中心となる神社をベテルとダンに建立し、ここに先の二体の偶像を安置し民に礼拝させる(29、30節)。さらに、「高き所」と呼ばれた偶像礼拝施設をベテルとダンに設置し、さらに国家宗教普及のため祭司たちまで任命した(31節)。そして、建国記念日を8月15日に定め、この日に祭りをしたのである(32−33節)。

2.明治政府の国家神道政策

 明治以来、先の敗戦に至るまでの国家神道政策について簡潔に見ておこう。明治維新が起こった時、時の権力者たちは、この東海の列島に住む人々をどのようにして一つの「日本国民」として束ねることができるかという課題を抱えていた。そのころ、インド、ビルマはイギリスの植民地とされ、インドシナ半島はフランスの植民地とされ、インドネシアの島々はオランダ領とされ、フィリピンはスペイン領とされ、また、中国はイギリスやロシアに蚕食されつつあった。こうした状況の中で、日本が独立をたもつためには、どうしても列島の住民に「日本国民」としての自覚を持たせて纏め上げなければならないと彼らは考えた。当時、この列島の住民たちは「日本人」という意識を持たず、薩摩人とか長州人とかいうふうな意識を持つのみであった。
 伊藤博文は欧米列強の視察の結果、キリスト教がそれぞれの国を精神的にまとめあげている「機軸」であるという理解をした。では日本にはキリスト教に代わる「機軸」となる宗教があるだろうか。仏教はどうか。仏教による日本国の宗教統制の歴史は古く、奈良時代からのものである。格別、江戸幕府は仏教寺院を利用して民の支配をしてきた。すなわち寺請制度 (檀家制度)をもって、キリシタンの摘発をして弾圧した。しかし、仏教は幕府という旧勢力とのむすびつきが強く、また宗教的な生命力をすでに失っていた。神道もそういう権威をすでに失っている。
 そこで、伊藤博文は皇室を持ち出してくる。そして、日本ではキリスト教に代わるものとして、古くからある神社神道皇室神道と結びつけて、維新から明治20年ころまでの間に国家神道が造りあげられた。背景には維新の精神的原動力の一つになった平田篤胤復古神道がある。平田篤胤(1776−1843年)は、本居宣長の系譜にある人物であるが、その神道説のなかに仏教・儒教のみならずキリスト教神学をとりいれた。たとえば、『霊の真柱』、『古史伝』では、宇宙を支配する主宰神としての天之御中主神を登場させ、死後に審判があるという思想を述べ、天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神を三位一体になぞらえている。それゆえ国家神道は、従来の八百万の神々をまつるあちこちの多神教神社神道とちがって、唯一神教的性格をもっている。
国家神道政策において、政府は仏教に対して廃仏毀釈運動を展開する。また全国にてんでバラバラにある神社の格づけをして、その頂点に天皇家氏神である伊勢神宮がくるヒエラルキーを造った。また天皇が一般庶民にはあまり知られてもいなかったので、その宣伝にも努めた。国民は、国民学校にはいると修学旅行でお伊勢参りに連れていかれた。さらに、国家神道普及のために「宣教士」を任命し、神祇官教部省という役所(後の文部省)によって国家神道を普及させようとはかった。国家宗教の祭司の任命である。そして1873年(明治6年)に、二月十一日を神武天皇即位の日、すなわち紀元節として建国の記念をしたのである。二月十一日こそ、この国は「天皇を中心とした神の国」であるということを確認する日にふさわしい日とされたからである。
 明治政府の政策はヤロブアムの国家宗教政策と附合していることに気付くであろう。その動機は、やはり列強に対する恐怖であった。国家神道による国民の思想的・宗教的統制は先の戦時下にもっとも甚だしいものとなった。冒頭に取りあげた教会学校教案は、そうした時代、教会が国家権力の圧力に屈してしまった時代のものである。

3.イスラエルの建国記念

 建国の記念というのは世界の国々ではどのように行なわれているのであろうか。
 宗主国からの独立の記念日を建国記念日としている国が多い。アイスランドアフガニスタンアメリカ、インド、アルゼンチン、アルバニアグアテマラケニアコスタリカなどである。 しかし、それがすべてではなく、国家体制の変更・変革を記念した日を建国の記念としている国々もある。たとえば、フランスはバスチーユ監獄襲撃の日、つまり大革命勃発の7月14日。中華人民共和国は10月1日。毛沢東天安門で建国宣言をした日。ドイツは東西ドイツの統一の日、10月3日。また、デンマーク立憲君主制が成立した日、6月5日。トルコは共和政となった記念10月29日である。
 日本のように、国王の先祖の建国神話に基づいた建国記念日というのは、近代国家においてはきわめて珍しい。珍しいから意義深いのか、バカみたいなのかは議論があろうが。
 あらためて、古代イスラエルにおける建国の記念はどういうことだろうか。
 「【主】は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」(出エジプト12:1,2)
 古代イスラエルは、己が国の起源をどこに求めたであろうか。それは、出エジプトの出来事である。奴隷の地から解放され、罪と死から贖われたという歴史的経験が、イスラエルにとっての建国の記念であったということができるであろう。このことから、建国記念の日の教理を導き出そうというわけではないが、考えさせられるところである。人間が考える建国の記念といえば、たいてい宗主国から独立を勝ち取った日、革命によって古い政治体制を打倒した日ということである。エジプトの支配から解放された日という意味では、イスラエルの正月の制定も似たところがあるが、それと同時に、神の前における罪からの解放という意味がもっと本質的なところである。過越しの出来事は、革命や独立戦争の勝利といった華々しい勝利の出来事の記念というよりも、罪の贖いという厳粛な神の恵みの出来事であった。これは意義深いことと思われる。
 
4.日本国憲法の起源
 (史料は国立国会図書館HP「日本国憲法の誕生」)
 
 筆者としては、建国記念日について新たに定めるとしたら、憲法記念日である5月3日がふさわしいのではないかと思っているので、このあと日本国憲法の成立について述べて見たい。しばしば日本国憲法はGHQからの押し付け憲法であると宣伝され、自主憲法制定をすべきであるという人々がいる。もし、そうであったとすれば、5月3日は、建国記念日でなく「米国への隷属記念日」ということになるかもしれない。では、日本国憲法制定の真相はどういうものだったのか。
日本国憲法の三大特徴は、小中学生の教科書も明言するとおり、国民主権基本的人権の尊重・平和主義である。

(1)国民主権基本的人権の尊重
 1945年10月4日、マッカーサーは、近衛文麿元首相と会談し、憲法の改正について示唆を与え、10月11日、幣原首相との会談において、「憲法自由主義化」に触れたので、幣原内閣は、憲法改正に対応することになった。松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が10月25日に設置された。だが、翌年2月4日松本委員会が提出した「憲法改正要綱」は、帝国憲法と本質的に変わるところがなかったので、マッカーサーに拒否された。
(参照:松本委員会「憲法改正要綱」http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/074shoshi.html
 他方、民間ではさまざまな団体・新聞が憲法改正案を発表していた(http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/revision.html#s3)。そのなかで、格別に現憲法に直接的影響を及ぼしたのが憲法研究会の「憲法草案要綱」であった。憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者、鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。
 鈴木が研究会の討議を経て、第一案から第三案を起草して、12月26日に「憲法草案要綱」として、内閣へ届け、記者団に発表した。鈴木はかつて京都帝大生の時代、1925年マルクス主義に傾倒して、京都学連事件治安維持法逮捕第一号となって投獄された。この出来事の後、鈴木はマルクス主義を適用するのは急進的・非現実的と悟ったらしく、その後、明治の自由民権運動における憲法史の研究にこつこつといそしんできていた。「憲法草案要綱」を読めば、明治15年に起草された植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』の影響が顕著である。植木枝盛板垣退助のブレーンであった。ほかに、土佐立志社の『日本憲法見込案』をはじめ明治初期、弾圧に抗して起草された二十余の草案、および1791年のフランス憲法、米国憲法ソ連憲法、ヴァイマール、プロイセンを参照したと記者団に説明している。
 同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇統治権を否定し、主権在民の原則を述べ、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めている。また基本的人権の尊重が具体的に述べられている。このように憲法研究会の憲法草案要綱は、日本国憲法の骨子となっているのである。(http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.html
 GHQは、これを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な報告書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。このように憲法研究会案はGHQの英文日本国憲法作成に強い影響を与えた。以下に、鈴木案のうち、国民主権天皇の位置づけ、基本的人権について述べられる「根本原則」のところを引用しておこう。
「根本原則
 1 日本国の統治権は日本国民より発す
 1 天皇は国政を親らせず国政の一切の最高責任者は内閣とす
 1 天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る
  中略
 1 国民は法律の前に平等にして出生または身分に基づく一切の差別は之を廃止す
  中略
 1国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げるいかなる法令をも発布するをえず
  中略
 1国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す
  中略
 1男女は公的並びに私的に完全に平等の権利を享有す
 1 民族人種による差別を禁ず」
 (以下、議会、内閣、司法、会計および財政、経済、補足は省略)
 GHQは1946年2月13日、英文で書かれた日本国憲法草案を日本側に渡した。当時、政府はそれが憲法研究会案を背景としたものとは知らなかった。「アメリカ製憲法を押し付けられた」と政府は思ったのだが、実は、その内容は日本製だったのである。GHQ草案→http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html
 鈴木のおもな思想的源泉は、植木枝盛をはじめとする自由民権運動のなかで起草された数々の民間憲法草案であった。明治時代に国権主義と民権主義の論争があって、結局、国権主義が勝利を収めて、「外見立憲君主制」の大日本帝国憲法ができたのだが、敗戦後、ひとたび葬られていた民権主義が民主立憲君主制日本国憲法というかたちで復活してきたという歴史的流れである。
 植木枝盛憲法草案は右参照されたい。http://homepage2.nifty.com/kumando/si/si010515.htmlおよびhttp://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description14.html
 つまり、日本国憲法の、国民主権基本的人権尊重は、<植木枝盛をはじめとする自由民権運動の民間憲法案→鈴木安蔵憲法研究会「憲法草案要綱」→GHQ英文草案→日本国憲法>というプロセスで成立したのである。
 家永三郎編『植木枝盛選集』(1974年、岩波文庫)の巻末解説には、植木枝盛から日本国憲法への流れがきちんと書かれている。
日本国憲法は、植木枝盛草案ときわめてよく似ている。主権在民基本的人権の保障、地方自治の確立、みなしかり。その平和主義は枝盛の『無上政法論』と精神を同じくする。男女同権、家の廃止を核心とする新民法は、枝盛の家制度改革論と寸分たがわない。枝盛の政治上、社会上の改革論は、日本国憲法体制の青写真であり、半世紀前に国民が望みながら実現しえなかった期待が、敗戦という不幸はまわり道をたどって実現したものと見るのは、決して強弁ではない。・・・(中略)・・・
 しかも、日本国憲法について言うならば、その原案となったいわゆるマッカーサー草案の作成に当たり、占領軍は日本人有志の憲法研究会の草案を参考としその内容をとり入れているのであり、かつ、その憲法研究会草案は、戦前におけるほとんど唯一の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵植木枝盛草案その他を参考にして起草したものなのであるから、日本国憲法植木枝盛草案との酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有するのである。このような事実にかんがみ、いわゆる戦後民主主義あるいは平和主義を、私たちは改めて近代日本の精神的伝統との関連において見直す必要があるのではなかろうか。」
 しかし、憲法研究会「憲法草案要綱」には軍備についての条項がなかった。

(2)平和主義(第9条)も日本製
 日本国憲法のもう一つの特徴である第九条戦争放棄条項はどこから来たのか。これは、史料からいえば、日本の首相幣原喜重郎の発案である。また、この憲法が発布されたとき、日本国民はこれを喜んで支持した。(以下は、伊藤成彦氏の「軍縮問題資料」1995年所収論文から略述。)
 一九四六年一月二十四日正午、幣原首相はマッカーサー元帥を訪ね、約二時間半会談をした。この会談の内容について、マッカーサーは一九五一年五月五日の米国上院軍事・外交合同委員会聴聞会で証言をしている。少し長くなるが引用しておこう。
 「日本の首相幣原氏が私の所にやって来て、言ったのです。『私は長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争をなくすことだという確信に至りました』と。彼は言いました。『私は非常にためらいながら、軍人であるあなたのもとにこの問題の相談にきました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないだろうと思っているからです。しかし、私は今起草している憲法の中に、そういう条項を入れる努力をしたいのです。』と。
 それで私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って、それは取られ得る最高に建設的な考え方の一つだと思う、と言いました。世界があなたをあざ笑うことは十分にありうることです。ご存知のように、今は栄光をさげすむ時代、皮肉な時代なので、彼らはその考えを受け入れようとはしないでしょう。その考えはあざけりの的となることでしょう。その考えを押し通すにはたいへんな道徳的スタミナを要することでしょう。そして最終的には彼らは現状を守ることはできないでしょう。こうして私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れたのです。そしてその憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的な感情に訴える条項があったとすれば、それはこの条項でした。」
 この会談については、日本側からの証言もある。幣原首相の友人枢密顧問官大平駒槌は「(幣原首相は)かねて考えた世界中が戦争をしなくなるには、戦争を放棄するという事以外にはないと考える、と話し出した。ところが、マッカーサーは急に立ち上がって両手で手を握り、涙をいっぱいためて、そのとおりだ、と言い出したので、幣原はちょっとびっくりしたらしい。」と回想している。
 幣原首相は外相時代、平和外交の旗手であった。ところがその後、日本は中国において「自衛」と称して侵略を続け日米開戦にまで暴走してしまった。その苦い経験に基づいて、明瞭な戦争放棄が必要と考えたのだろう。また連合国側の天皇処罰要求を前に、国体護持のためには、これ以外道はないと考えたという観測もある。他方、軍人マッカーサーは太平洋戦争の残酷さを経験し、かつ核兵器の登場という事態を見て、少なくともこの一時期、戦争の廃止以外には人類を滅亡から救う道はないと思い至ったのである。マッカーサーは、その後の朝鮮戦争の頃の動きを見ればわかるように、永続的に戦争放棄を維持し続けるほどの人物ではなかったのだが、この一時期、幣原発案の戦争放棄の理想に感激し、それが日本国憲法に刻み込まれるということになった。一種奇跡に近いタイミングだった。
 改憲派の人々のああだこうだと、マッカーサー、幣原の回想録発表の時期などから多くの推測交えて、幣原が9条を産んだという事実を否定したくて、「ためにする」反論をしていることは承知している。だが、文書的な証拠は憲法9条は国産であると語っている。以上のようなわけで、新憲法のもう一つの特徴である憲法第九条戦争放棄条項もまた、国産なのである。

まとめ
 日本国憲法の三大原則は、<国民主権基本的人権の尊重・平和主義>であるが、前の二つの原則は、明治の自由民権運動憲法史を研究した鈴木安蔵が起草した憲法研究会案が出所であり、第三原則は時の総理大臣幣原喜重郎による。これらがGHQによって英訳され肉付けされて、GHQ草稿日本国憲法が作られ、これが邦訳された。日本国憲法はこういうわけで逆輸入品、つまり、本質的な意味では国産品と言って良い。
 「2.11」という日は天皇主権を主張する日であって、いかにも、国民主権にたつわが国にはふさわしくないであろう。であれば、むしろメイド・イン・ジャパンである日本国憲法が制定された5月3日を日本国の建国記念日とするという案はいかがだろうか。

改憲運動の現状>
Q32. 今後、改憲に向けてどのような動きがあるのだろうか?
A. 「改憲のための国民投票手続き法」の主要規定は2010年5月18日に施行され、発議、国民投票が可能となる。
憲法96条によれば、<憲法改正は国会各議院の総議員の三分の二以上の賛成で発議され、国民投票においてその過半数の賛成を必要とする>とある。与党と野党第一党民主党はともに改憲の立場であるから、現状ではいつでも改憲の発議ができる状況である。
憲法調査会が提出した「改憲のための国民投票の手続き法」は①「国民投票過半数」を「有効投票数の過半数」と解釈し、②改憲発議から投票まで最短わずか三十日で国民投票ができ、③最低投票率も定めず、④刑罰をもって教員・公務員の投票活動を制限し、外国人の投票活動を禁止し、⑤マスコミが虚偽の記載をすれば「二年以下の禁固」で処罰するという情報統制を規定している。
また、実際に目指されている改憲の焦点は、①天皇の元首化 ②9条改変によって防衛軍の保持、集団的自衛権銘記、③基本的人権の制限 ④政教分離条項を緩めて靖国公式参拝合憲化がある。その他、プライバシー法、環境保護法など国民受けする法案をセットで国民に賛否を問うであろう。