苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

執事たちの選出

使徒6:1−7
2010年1月31日 小海主日礼拝

1. 弟子がふえるにつれて・・・・・問題

 初代教会に問題が生じました。それは、初代教会に問題が生じたのは、主イエスを信じる弟子たちがふえていったからです(1節)。でも、問題があることは問題ではありません。この問題は、教会が生きているしるしでした。教会の成長において、新しい段階にさしかかったということを意味しているのです。問題をクリアすることができるならば、教会はさらに前進するでしょうし、もし問題をクリアできなければ停滞することになるでしょう。今回の問題の対処の結果は、7節に記されています。初代教会はこの問題をクリアすることによって、神のことばはさらにますます広がっていき、祭司たちまで回心したのでした。概括は以上にして、少し詳しく見てまいりましょう。
「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。」(1節)
 ギリシャ語を使うユダヤ人(ヘレニスタイ)というのはどういう人々でしょうか。当時、地中海世界の東半分の共通語はコイネーと呼ばれるやさしいギリシャ語でした。ユダヤ人たちは数百年前から地中海世界のあちこちに移住して暮らしており、そこで生まれ育ったユダヤ人たちは、幼い頃からギリシャ語で生活をしていたので、ヘブル語が使えませんでした。けれども、そういう人たちがエルサレムに相当数戻ってきて生活をしていたのです。
 そういうヘレニスタイがイエス様の福音を知り信じるようになっていったので、エルサレムの初代教会のうちには、ずっとイスラエルに住んでいてヘブル語を話すユダヤ人と、移住先から帰ってきてギリシャ語を話すユダヤ人とが混ざっているという状態だったのです。
 ところで、当時、ユダヤ教会でもやもめたちに対する生活支援をしていました。今の日本でもそうですが、当時のユダヤではなおのこと夫に先立たれた女性が自活することは、つける職業が少ないのでとても困難なことでした。そういう背景があったので、初代キリスト教会もごく当たり前のように、やもめへの配給ということを実践するようになりました。主イエスご自身の宣教においても、福音宣教にはつねに社会的奉仕がともなっていました。
 ところが、ことばが通じないという事情があって自分たちの必要を十分に説明できなかったのが、ヘレニスタイのやもめたちでした。また、移住先から戻ってきた者としての肩身の狭さということも当然あったのだろうと想像がつきます。とにかく、ギリシャ語を使うユダヤ人やもめとその子どもたちは、始終おなかをすかせているという状況があったのです。そこで、ヘレニスタイ(ギリシャ語を使うユダヤ人)の代表たちが、使徒たちに苦情を申し立てたのです。

2.解決
(1)目的「みことばと祈りに専念するため」
 さて、この問題に使徒たちはどのように対処したでしょうか。使徒たちは12人であり、このころ教会の信徒たちは男の数だけで5000人ほどになっていましたから、男女あわせて倍の1万人はいたはずです。12人の使徒たちは、朝から晩までやもめたちへの配給とその他の仕事のために忙殺されていました。ところで、使徒たちの、本来の召しと務めは、みことばと祈りでした。そこで、使徒たちは信徒のうちから執事たちをみなに選んでもらうことにしたのです。
「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。」(2節)
 やもめたちへの配給つまり「食卓のこと」が、卑しいつまらない仕事だというのではありません。それはそれで尊い務めです。たびたび申し上げることですが、主イエスご自身の宣教活動にもみことばをのべ伝えることには、社会的奉仕がともなっていたほどに大切なことでした。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(1ヨハネ3:17,18)とヨハネの手紙にもあるとおりです。けれども、主イエスの宣教活動においても、究極のところ、優先順位は福音をのべつたえることでした(マルコ1:35−38)。
 同様に、主イエスのお働きを引き継ぐように任務を与えられた使徒たちにおいても、伝道と社会奉仕の任務の優先順位からいえば、「みことばと祈り」が社会奉仕に優先するのだということをいいたいのです。牧師は、みことばと祈りをおろそかにしなければならないほど、他の務めにエネルギーを用いてはならないのです。神のことばが教会の進む報告を決定するものであり、さまざまな奉仕にいのちを与えるものだからです。
たとえば、牧師が「愛餐会のお料理を準備するのが忙しくて、説教もお祈りも十分できませんでした。」というような言い訳は通用しないでしょう。みなさんは「そういうことなら、先生は愛餐会の準備をしなくていいです。それは私たちがしますから。みことばと祈りに専念してください。」というでしょう。そういうことです。

(2)執事選出の配慮
 こうして、彼らはやもめたちへの配慮を担当する執事さんたちを選ぶことにしました。短いことばですが、実に周到に、執事選出に関しては、きちんと方針が定められ、適切な配慮がなされたことが記事からうかがえます。
「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(3,4節)
 まず、だれでも執事になればよい、輪番制にしましょうというわけでなく、彼らは執事となるにふさわしい人について三つの条件を挙げたことです。
 第一は御霊に満ちている人。
 第二は知恵に満ちている人。
 第三には評判の良い人。
 まず「御霊に満ちている人」というのは、この場合、「御霊の実」のことであると取るのがよいと思います。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)です。つまり、まず執事となって特に貧しいやもめへの配慮をしようという係りの役員さんには、キリスト的な品性を備えたひとであることが条件だということです。彼らが配慮しなければならない相手は、弱い立場にあるやもめたちですから、彼らに対して優しく接することのできるそういう品性を備えていることが大切でしたし、執事さんたち自身がまずイエス様にぴったりとつながっていることが必要でした。
 第二は知恵に満ちている人ということです。こちらは、「御霊の賜物」と考えるのがよいでしょう。御霊の賜物とは、御霊がくださった奉仕するための能力です。子どもであっても、御霊に満ちた品性の人という人はいるでしょうが、教会全体のことを見渡しながら多くの人の世話をするという複雑なこともある務めには適格ではないでしょう。知恵が必要でした。また、群れ全体を見て公平さということを大切にしながら、しかも、単に杓子定規な公平さというのではなく、一人一人の必要に答えていくというのですから、相当の知恵が必要なのです。役員さんたちは、聖書の線にしたがって、教会の群れ全体とひとりひとりを導くという両面がたいせつです。
 第三は評判がよい人ということです。牧会書簡には「教会外の人々にも評判がよい人でなければなりません。そしりを受け、悪魔の罠に陥らない(sg.)ためです。」(1テモテ3:7)ということばがあります。評判がよくなければ、教会の中の兄弟姉妹たちにも信用されません。信用されなければ、どんな働きも人から受け入れてもらえないでしょう。また、執事となる人たちは、使徒たちに次いで教会にとっての対外的な看板としての役割も担います。ですから、彼らが悪評を受けていれば、教会にも悪評が及ぶことになってしまうでしょう。そうすると、キリストが悪評を受けることになってしまいます。そこで、評判がよくなければならないわけです。
  さらにもうひとつ、このギリシャ語を話すやもめへの配給という状況において、特別な配慮がなされたことが、5節からうかがえます。「この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び」(5節)とあります。
 選ばれた人たちは、その名前から見ると、おそらくヘレニスタイつまりギリシャ語を話すユダヤ人たちでした。人々の間を取り持つ役割を持つ執事ですから、彼らはきっとヘブル語もできたでしょうが、ギリシャ語ができたのです。使徒たちはみなヘブル語を話すユダヤ人でした。今、問題になっているのはヘレニスタイのやもめたちですから、彼女たちの実情を聞いて理解できる人たちを奉仕者として選んだということでしょう。
 以上のように、御霊に満ちてキリスト的品性をそなえた人、知恵があって多くの人のからむ問題を公平にそして一人一人の必要に答えて扱える人、そして、教会の内外に評判の良い人、そして、今回の問題を解決できるギリシャ語が話せてやもめたちに配慮ができる人、このようにして最初の七人の執事さんたちが選ばれました。

(3)祈りと按手
 こうしたことを基準として、信徒みんなのうちから適切に選ばれてのち、使徒たちの前でおごそかに祈りをして手が置かれました。
「この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。」(6節)
 手を置くというのは、主イエス使徒たちに与えられた権限を、今度は、使徒たちが執事たちに分け与えたということを意味していました。そうして、使徒たちはこの執事たちが主に託されたつとめを正しく十分に果たすことができますようにと祈りました。聖霊の助けなくして、この大事な執事職をまっとうすることはできないからです。
ですから、私たちの教会でも信徒のみなさんは、役員さんの働きを祈って支えていく責任があります。

3.結果
 「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」(7節)
 「こうして」とあります。「こうして」とはどうしたのでしょうか?使徒たちはみことばと祈りに専念し、執事たちはやもめたちの配給その他の奉仕に励みました。執事たちに権限を譲った使徒たちは十分に祈ることができ、みことばの備えに力を注いだので、いよいよ回心者がふえていき、なんと「多くの祭司たちも次々に信仰にはいった」というすばらしい結果が生まれました。またギリシャ語を話すやもめたちも実情をよく知ってもらえる執事たちが与えられて、適切な配給がなされるようになりました。