苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ことばは人となった

          ヨハネ福音書1章
          クリスマスイブ礼拝 小海
 「神様っているんだろうか?」ごく普通の葬式仏教の家に生まれた私は、小さな頃、ぼんやりそんなことを考えていました。みなさんも、子どもの頃そんなことを考えませんでしたか。私は子ども向けのギリシャ神話や古事記やらを読んでみて、この世界を造った神さまはどんなお方だったのだろうと考えました。でもわかりませんでした。
 やがて、中学、高校生になって、無神論的な教育を受けるうちに、神などいないんじゃないかと思うようになりました。けれども、神がほんとうにいないとしたら、(当時私は生物クラブに属していましたが)、なんでこんなに精巧に生き物のからだはできているのか不思議でした。生物のからだはDNAに記された精密きわまりない設計にしたがってできています。
 神様はいるんだろうか?このことに正しく答えることができるのは、人間ではなくて神様ご自身のほかにありません。神様は聖書を通してわたしたちにご自分のことを伝えてくださいました。「はじめに、ことばがあった、ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と聖書は語ります。神はもちろん実在しています。しかも、神とともに「ことばロゴス」と呼ばれる方がいっしょにいらしたというのです。

1. ことばとは?
(1)永遠・人格・神
 まず、「ことば(ギリシャ語でロゴス)」と呼ばれているお方はどのようなお方であり、なにをなさったのか。1節と2節に注目してください。ここには「ことば」というお方について、三つのことが啓示されています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方ははじめに神とともにおられた。」
「初めにことばがあった」でいう「初め」は永遠の初めを意味しています。科学者は宇宙は137億年前に始まったらしいと言っていますが、神様はそして「ことば」という方はそれよりずっとずっと前から、存在するのです。ことばなる神は永遠です。この天地万物が造られるよりも、もっと前、初めの初め永遠の初めです。その永遠の初めから、ことばなる神はおられました。
次に、「ことばは神とともにあった。」「この方は、初めに神とともにおられた。」という表現は、直訳すれば「ことばは神に向かっていらした」ということばです。差し向かいで、語らっておられたのです。人格的な交わりをもっていらしたのです。ある人々は、神をなにか非人格的な宇宙の原理みたいなモノであると考えるようですが、まことの神は人格であり、知性と感情と意志をもっておられて、私たちの祈りに耳傾けてくださるお方です。
そして三つ目は「ことばは神であった。」とあります。聖書申命記には「聞け。イスラエル。神は唯一である。」とあります。ですが福音書は啓示するのです、その唯一絶対の神は、そのうちに、父なる神とことばなる神(御子)の愛の人格的交わりのあるお方なのだ。永遠から永遠の愛の交わりをもっている、それがまことの神です。
「ことば」と呼ばれる神は、人としておよそ2000年前に地上に生まれるはるか以前、天地万物が存在する以前、永遠の昔から、父なる神と愛の交流のうちに生きておられるお方なのです。

(2)「ことば」は創造者
 ことばと呼ばれる神は、万物を創造しました。3節。
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
 みなさんは、この世界を見て、不思議だなあと感じたことがないでしょうか。大きな物、小さなもの、よく観察すればするほど、この世界はよく造られています。冬は水蒸気が少ないので星空がよく見えます、帰りにはきらめく星空を見上げてください。私たちが住んでいるこの地球は太陽系の内側から第三番目の星ですが、太陽のような星は銀河系に実に千億もあるんだそうです。銀河系はひとつの小宇宙であるわけですが、ほかにもたくさんの例えばアンドロメダ星雲のような小宇宙が全宇宙におよそ1000億個あるのだそうです。ですから、全宇宙には千億かける千億個の太陽があるのです。0が22個の数字で、兆の上の京のさらに上の単位である100垓です。それらの星が、自転や公転をしながらそれぞれちゃんと軌道を描いて運営されているのです。それらを誤ることなく導いておられるお方の知恵は、計り知れません。
 旧約聖書詩篇の詩人ダビデは星空を見上げて、こんなふうに言いました。
「 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
  人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。」詩篇8:3−4
 私たちは星空を見上げて、あの星のかなたには何があるのだろうとフーッとためいきが出るのですが、聖書に言わせれば、この広大無辺の全宇宙は、創造主にとっては指のわざにすぎないのです。
 生物の世界に目を転じて見ますと、創世記にはつぎのように書かれています。
「神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
「神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。」
「神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。」
 現在地球上にはおよそ1000万種もの動植物がいるそうです。人間が造るものは、合理性を考えて似たようなものばかりになってしまいます。最近の軽自動車など、どれがどのメーカーのものか見分けがつきません。でも、「ことば」とよばれる神は実に多種多様な生き物を造られました。電子顕微鏡ができてようやくわかったことですが、神は実にこれらの生き物の設計図をみなDNAに刻んでおられたのです。宇宙を見ても、ミクロの世界をのぞいても、ことばと呼ばれる神の知恵と力とははかりしれません。
偉大な創造主を思えば、人間の知恵とか人間の科学力といったものは、ほんとうにちっぽけなものにすぎません。ある古代の神学者が、われわれが神を理解しようとすることは、カブトムシがわれわれ人間を理解しようとするよりも難しいと言ったそうです。神の偉大さに対して、私たちは小さな小さなものです。
 
2. ことばは人となった
(1)ことばは人となった目的 その1
 神の作品である宇宙や生物の仕組みを見れば、その知恵と力に驚かされます。しかし、今からおよそ2000年前、もっと驚嘆すべき奇跡を神は起こされたのだと聖書は私たちに告げているのです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」という出来事です。この広大無辺の宇宙を創造し、電子顕微鏡でなければ見ることもできないミクロの世界までみごとに創造なさった「ことば」と呼ばれる神が、よりによってなんと全宇宙の片隅にある銀河系の、よりによってその片隅にある太陽系の、よりによってその片隅にある地球の、よりによってその片隅にあるイスラエルベツレヘムの、よりによって馬小屋にお生まれになったのでした。なんと不思議なことではありませんか。
 いったいなんのために永遠のことばであるお方が人となって、この世界においでになったのでしょうか?二つの目的があります。一つは、無限で絶対者である神がどのようなお方であられ、神様がどれほど私たちを愛していらっしゃるかを、私たちに伝えたいと願っていらっしゃるかを私たち人間にもあきらかにするためです。次のように言われています。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
 これがイエス様が、「ことば」というニックネームを持っていらっしゃる理由でしょう。私たちはことばでもって、人に自分の意思を伝えることができるものです。ジェスチャーだけでは、なかなか言いたいことが相手に伝わりません。先日、クリスマスの会でジェスチャー伝言ゲームをしました。一つはこうです。・・・・答えは「書初め」です。このように、なかなかうまく伝わらなかったのです。私たちは確かにこの宇宙の姿とか、からだの仕組みがなんとも精密機械以上に精密に設計されているのを見て、神様のことを少し知ることができるでしょう。神様の知恵のすばらしさとか、力に驚かされます。けれども、それはいわばジェスチャーゲームみたいなことで、正確には伝わりにくいものです。誤解されてしまいます。
 ですが、ことばで伝えるならば、ジェスチャーで伝えるよりもはるかに正確に深く豊に気持ちを伝えることができるでしょう。さらに本人がやってきてじかに話をしてくれたら、そして、いっしょに生きてくれたらもっと豊かにたしかに伝わるではありませんか。ことばなるお方は、イエス・キリストという人となってこの世に来られて、私たち人間にわかる方法とことばでもって、神様がどれほど正義に満ちたお方であるか、どれほど愛に満ちたおかたであるか、神様がどれほどきよいお方であるか、どれほど知恵に満ちたお方であるかを、その生き方とおことばによって教えてくださったのです。

(2)ことばが人となった目的 その2
 永遠のお方であり、万物の創造主であるイエス様がこの世に人となってこられたもうひとつの目的があります。それは、私たちをいのちに導くためです。神様とつながった人生に招き、天国に至るまでの人生をお与えくださるためでした。これを聖書は「いのちゾーエー」と呼びます。
 私たちは今生きています。とりあえず息をするという意味では、おたがい生きているわけです。けれども、聖書黙示録にはイエス様のこんなことばがあります。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」(3:1)怖いことばですねえ。ゾンビみたいです。イエス様の目から、私たちの行いを見たら、きみは生きてはおらず死んでいるじゃないかとおっしゃるのです。死んだ行いとはなんでしょうか。それは罪です。罪とは、神の戒めに背くことです。「あなたにはわたしの他に他の神々があってはならない」とありますから、神ではないものを神とすることは罪です。「あなたの父母を敬え」とありますから、親を敬わないことは罪です。「殺してはならない」とありますから、人殺し、人を憎むことは罪です。「姦淫してはらならない」とありますから、浮気をすることは罪です。盗み、うそをつくこと、隣人の幸せを嫉むこと。こういう行いをしているならば、あなたは実は死んでいるのだと神様は私たちにおっしゃるのです。そして、この罪を抱えたまま赦されないままであれば、私たちは永遠の刑罰を受けることになります。
 ことばというニックネームをもつイエス様が人となってこられたのは、私たちをこの罪から救って、いのちある人生を与えるためでした。天国にまで続くすばらしい人生をくださるためでした。 イエス様は光でした。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」イエス様がこの世に来られて以来、イエス様に出会った人々の反応は二つに分かれました。それはイエス様に近づくことに恐怖を覚え、イエス様を拒絶して罪の暗闇のなかにとどまった人々と、イエス様のうちに自分の希望を見出してイエス様に近づいて、いのちを得た人々です。10節、11節にはイエス様を拒んだ人々の姿が書かれています。
「 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
 では、イエスを受け入れて、神の前にあるいのちにあずかった人々とはどんな人々だったのでしょうか。「血によってではなく」とあるように、血筋は関係ありません。ユダヤ人であろうと、ギリシャ人、ローマ人であろうと、アフリカ人であろうと、日本人であろうと関係ありません。ただイエス様を私の神として受け入れればよいのです。
また、「肉の欲求や人の意欲によってでもなく」とあるように、特別に修行をして偉大な業績を残した人にだけ、「いのち」をくださるというのではありません。ただイエスの名を信じた人々、イエス様は私の救い主ですと信じた人々が神のこどもとされる特権が与えられるのです。神の子どもとされるとは、神と共に生きる、喜びと平安と希望のある人生のことです。そのために、ことばなる神であるイエスは、地上に人としてきてくださったのです。あなたも、イエス様を信じてください。