苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

バトンは受け取れたのか?ー小畑進先生

 小畑進先生が天に駆け去られたのち、しばらく経って考えさせられていることは、私たちはバトンはちゃんと受け取ることができたのかということである。小畑先生はキリ神が、来春には入学者募集を打ち切ろうとするこのときに、天に召された。小畑先生が神学教育にかんして生涯を賭けて大事にされたこととはなんだったのか。いろいろ考えたが、多くはあの卒業証書に集約されるのであろう。この卒業証書も、三年後には渡されなくなるのであろう。

 「新旧両約聖書に啓示され」という文言が意図するところは、バーバル・インスピレーション言語霊感である。主イエスが「律法の一点一画もすたれることなし」とおっしゃり、新約聖書記者たちもそのように旧約聖書を扱ったように、聖書の片言隻句まで啓示されているという聖書信仰である。筆者は、聖書論についてのさまざまの講義を聴いたり本を読んだりしたなかで、小畑進先生の聖書論講義でやっと聖書信仰者としての背骨がきっちりと入ったという経験をした。近年エキュメニズム派内のバルト的保守勢力との対話が盛んになって来たことは、意義なきことではないと思っている。しかし、彼らの緩んだ聖書観の影響を受けて、TCIの聖書論がバーバル・インスピレーションから逸脱してはならない。むしろ、エキュメニズム陣営に影響を及ぼしていくほどの確信を持って学問的営みをすべきである。
 「宗教改革において宣明された神学と精神」ということば。小畑先生の講義は東西両思想に広く深く及んだが、常に帰ってくるところは「プロテスタントの兵器庫」カルヴァンの『キリスト教綱要』であった。そこには、鋭い神学的洞察とともに、カルヴァンの牧会者としての苦闘と息遣いを感じる。
 「神学」といわず、「神学と精神」といい、これらに基づく「伝道者の訓育を使命とする」と続くことは何を意味するか。先生がキリ神で神学生たちに伝えようとしていたのは、単に神学的知識ではなく、キリストの福音にいのちを賭けた伝道者としての熱いスピリットであった。小畑先生が、ご自分の黄金時代は四日市で開拓伝道をしていた時代であったと回想されたことを思い出す。
 キリ神のスローガンは黙示録1章9節「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」である。使徒ヨハネが神のことばとイエスをあかししたことのゆえに、時の権力者によって流罪にされていたことを示す。キリ神のスピリットは殉教精神である。殉教はどのような事態において起こるのか。それは国家権力が悪魔化したときである(黙示録13章)。キリ神は現人神天皇を戴いた軍事国家体制に神の鉄槌が下った直後に建てられた神学校であった。キリ神の歴史神学講義で繰りかえし教えられたのは、「教会と国家」という視点であった。
 「伝道者の訓育を使命とする」とあるように、キリ神は神学者を養成することを任務とするのではなく、伝道者の訓育を使命とする学校である。私の神学生当時、キリ神は毎夜二時、三時まで勉強する神学校であったが、それは学者となるためではなく、敬虔な教理と生活を兼備した伝道者となるためであった。かりに神学者となったとしても、それは伝道スピリットを持つ神学者であるべし、ということである。
 ただ、卒業証書には記されなかったことで、小畑先生が情熱を傾けたもう一つのことがあった。それは共立女子聖書学院、TCC、キリ神の三校合同であった。小畑先生は強力なカルビニストであったが、それと同時に聖書信仰に立つ福音主義諸教派がもっと宣教における協力をすべきであるという願いを持っておられた。たがいの立場の違いは認め合いながら、協力できるところは協力すべきであるということである。そのためには、神学生時代に同じ釜の飯を食ったという経験をすることが、なにより有効なのだとおっしゃっていた。