苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

12月7日iohsugiさんコメントへの応答

1.iohsugi先生、よく勉強していますねえ。象徴天皇制は杉森と室伏ですか。室伏という人はもともと国粋主義者ですか。彼はコロコロ思想的転向があった人らしいですね。憲法研究会の議事録とは言わないまでも、そのおおまかな討論の流れが書いてある本をご存知ですか。勉強します。


2.フランスの政治的不安定は第一共和制のときだけでなく、それ以後ずーっと、近代フランスにおける病気みたいなものです。ブルボン朝復興のあと成った七月王政立憲君主制だというのはたしかにうわべそうなのですが、内容は民主制とは程遠いものでした。選挙権を持つ人はわずか0.6パーセントだったので、普通選挙を求める人々によって七月王政は倒されてしまいました。<国民主権立憲君主制>が安定的な政体だろうというのは私の判断ですが、七月王制はひどい制限選挙だったので<国民主権ぬきの立憲君主制>でした。


3.七月王制が脆弱だったのは、ほかにも理由があるとも思います。それは、タブーであった「王殺し」を一度してしまったからです。そのあと何度王や皇帝を立ててみても、もはやかつて王制が持っていたところの神通力は失われてしまったということでしょう。王制の生命線は、その伝統ですから、伝統が途切れてしまったら神通力は急速に失われるのです。天皇制を信奉する人々が万世一系の虚構に固執するのはそのせいです。それにルイ16世をギロチンで殺したあと、共和制から成り上がりのナポレオンによる帝政、それが倒れてブルボン朝・・・と、王や皇帝がつぎつぎ交代していますから、彼らは一応、王や皇帝を名乗りますが、国民の側の意識からすれば、実質的には大統領みたいなもんです。伝統の重みなんかありません。

4.イングランドにおける立憲政治の確立は、おっしゃるとおり、クロムウェル死後、王政復古で王にしてもらったジェームズ2世がKYで専制君主気取りだったので、議会がオランダからウィリアムを連れてきてメアリーといっしょに即位させて、ジェームズ2世を追い出して、二人に権利章典を認めさせた「名誉革命」の時です。ジョン・ロックがその思想的指導者でした。クロムウェルは軍人であり、カトリック勢力の軍事的巻き返しを警戒しなければならない政治的状況もあって、その政権は軍事政権でした。立憲政治とはいえません。軍事独裁による共和政でした。
 J.ロックはピューリタンの家庭に育ちピューリタン的な道徳観の人ではありましたが、クロムウェル時代の常時戒厳令下のような空気に辟易して、もっと個人の自由が認められる国家体制を志向して、立憲君主制を立案しました。彼の信仰内容はデイズム的です。
5.イングランドピューリタン革命の場合は、たしかに王をひとり殺したのですが、フランスのような合理主義による革命ではなかったので、急性アノミー(無規範状態)には陥らなかった点で決定的に違っています。フランス革命は<王と教会>という聖俗ふたつの伝統的権威を合理主義で倒したので急性アノミーに陥りましたが、イングランドピューリタン革命で成った共和政は厳格な規範ある神政政治を志向したので、フランスの第一共和政とは正反対というくらい違います。そして、クロムウェル後、王政復古名誉革命で、革命の打ち止めに成功しました。うまいこと、王の実権を削いで、でも、王制の伝統だけ国家統合に利用するということをやってのけたわけです。

 
6.共和主義革命の熱狂というのは、「王を殺してしまった」という恐怖をともなう異常心理でしょうね。王というものは、ある種の神格に近いものとされて来たものですから、これを殺すということは恐るべきことでした。大木英夫『ピューリタン』の叙述を読むとその雰囲気がわかります。「もののけ姫」で、シシガミの首をちょんぎってしまったときあたりを支配した異様な空気みたいなもんです。へんな映画でした。あれはギルガメシュ叙事詩がシナリオのねただそうで、背景はちと違う話なのですが。