苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

小畑進先生からの宝物


 京都のKGKの高木主事は小畑先生の赤白帽子を記念にいただいたそうである。そういえば、私が駆け出しの伝道者として練馬で下宿していたある日、大家さんが「おい。下に変なのが来てるぞ!」と呼びに来られたことがあった。一体誰だろうと思って出てみると、ほんとうに変なのがいた。中学生用の赤白帽子をかぶって、クリームのTシャツにピンク色のランニング用短パンに、運動靴のめがねの変なおじさん、小畑先生だった。足踏みしながら「みずくさせんせー!元気でやってますか!」と言われると、さっと駆け去って行かれた。杉並から練馬西大泉までマラソンして小さな者を励ましに来てくださったのだった。ほんとうに変な先生、そして、ほんとうにありがたい先生だった。でも大家さんにはあれが母校の教授ですとは言えなかったなあ。それでなくても胡散臭く思われていたから。
 筆者には小畑進先生にいただいた宝物がある。それは、筆者が二十年前、当時、大樹先生が仕える徳丸の教会の夕礼拝で1年間連続で話した教理説教をまとめた小さな本を先生に贈呈したときに、届いたお手紙である。自慢みたいだが、いや実際、愚かな自慢なのだが、恩師の記念としてここに書写しておきたい。

「頌主
 ・・先生!御本ありがとうございます。『神を愛するための神学講座』という題名が、とても・・先生的で温かくて優しくて。
 それも内容を読んでみるとパスカルのトーンが貫いているので完全に了解すると共に全く同感です。
 これが徳丸町での夕拝説教ということで・・先生の、ゆったりとした懇切丁寧な口吻で読まされました。
 また、この大きさと密度は程よく、心にくくもありました。予定のところなど、ここから出発して、ここへ帰還するのに格好だな、と思いました。
 それに『宣義』と出ていて!
 続編では『応用』となるのでしょうか。『神を愛するための神学講座』が『神に愛せられるための神学講座』という具合い。
 ・・・・・・・・・・・・(後略)・・・・・・・・・・尚々御精進の程を。  頌栄
 一九九二・一一・三十(月)」
 
 小畑先生は、神学生がいったん教師となったなら親子ほど歳が下の者でも「〜くん」とは呼ばず、「〜先生」と呼ばれた。それは、たとえくちばしの黄色い者であっても神が教師として立てた器であることに対する、先生の敬虔なわきまえであられた。手紙は励ましのための過分なおほめのことばであることは重々承知しているが、そうだとわかっていても筆者はこの手紙にどれほど奮起させられたことだろうか。小畑進先生は、教師であり牧会者であられた。そのような励ましを受けておりながら、筆者は『神に愛せられるための神学講座』という先生が出された宿題にはいまだお答えできていない。
 そうそう、自戒のために、学生時代にいただいた小畑先生からの筆者にたいする苦言をもここにメモしておこう。「君は『思いて学ばざれば則ち殆うし』の方だから、その点気を付けなさい。」地道に先達に十分に学んだその上で、自分なりのオリジナリティを出すべきであるという戒めである。もうひとつは卒業を間近にした日におっしゃったことば。「君は小さな群れに行くようですが、若い日には、不条理な役員がいるような古い大きな教会で、徹底的に砕かれるといった経験をしたほうがいい。」ということば。いずれも我の強い私を見抜かれた厳しくもありがたいおことばだった。これも宝物。