苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

暗闇に光が

                 イザヤ8:19−9:7

             2009年待降節第一主日礼拝

1. 暗闇の地に(8:19−22)

 紀元前8世紀、預言者イザヤが南ユダ王国で活躍をしていた当時、イスラエル南北朝時代。北イスラエル王国、南ユダ王国とに分裂していました。そして東方からは、押し迫る強大な軍事帝国アッシリヤ。アッシリヤという国はずっと古代からあったのですが、ティグラテ・ピレセルを王とする紀元前8世紀なかばにこの国は急激な膨張を始め、またたくまに周辺諸国を亡ぼし併呑していったのです。そして今や、虎視眈々とイスラエルをもその手中に収めようとしています。しかも、アッシリヤはある国を亡ぼすと、その民を大量に捕らえて強制移住させてしまうという政策を取っていました。
 「明日、この国はあるのかどうかさえわからない。恐らく殺されるだろう。かりに生きのびても、どこに連れられていくか見当もつかない。」イスラエルの国中に社会不安がひろがりました。そういう不安の中で、民と王は、天地の創造主であるまことの神とそのみことばにこそ立ち返るチャンスでした。ところが、王と民は、まことの神に立ち返るどころか、霊媒、口寄せ、占いといった迷信・オカルトに走ったのです。
 「人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。」(8:19)
 しかし、こうした迷信、オカルティズムに平安を求めても無益なことです。かえって民は暗闇の恐怖のなかに身を置くことになってしまいます。万物の創造主からのことばに立ち返らなければ、夜明けは来ないのです。
「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」(8:20-21)
 イスラエルは暗黒の中におりました。それは、明日、この国は暴虐なアッシリヤ帝国に亡ぼされてしまうかもしれないという政治的・社会的な暗闇でしたが、それ以上に、まことの神を見失って、偶像・占い・霊媒に身をゆだねてしまったという霊的な暗黒の中に置かれていたのです。

2.暗闇に光

 先ほども申しましたように、アッシリヤ帝国は他国を亡ぼすと、強制移住・混血政策を実行しました。それぞれの民族から民族としてのアイデンティティを奪い去ってしまうことによって、反乱が起こることを未然に防ごうと考えたのでしょう。実際、紀元前734年から732年、アッシリヤは北イスラエル王国に侵入し、民を陵辱し、王国の主だった人々を他の地へと強制移住させ、さらにこの地に他の国民を連れてきて居住させ混血させたのです。このような出来事を背景として、預言者イザヤは9章1節に述べています。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」
 ゼブルン、ナフタリ、海沿いの道、ヨルダン川のかなたというのは、みな北イスラエル王国の諸地方の名前です。そして、「異邦人のガリラヤ」と、ガリラヤ地方が異邦人の侵略の憂き目にあったことを嘆くのです。
 振り返ればそもそもソロモン王なきあと、イスラエルが南北に分裂してしまった、その最初から、北イスラエル王国には偶像崇拝が支配的でした。931年、北イスラエル最初の王となったヤロブアムは金の子牛の像を神であるとする国家神道を考案して、民が南のユダ王国にある神殿に出かけないように図りました。以来およそ200年間、北イスラエルはずっと霊的暗黒の中を歩んできたのです。アッシリヤ帝国に圧迫される前から、もともと暗黒の中を歩み、暗黒の中に座り込んでいたのです。
 ところが、驚いたことに、ある日、預言者イザヤは「異邦人のガリラヤは光栄を受けた」幻を見たのです。幻を見たイザヤ自身がいちばん驚いたのです。さらにイザヤはことばをかさねて、
「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
 死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
 とも言っています。闇に代えて光、辱めに代えて光栄を受けたといっているのです。いったい、これは何のことでしょうか。イザヤの後700年ほどの紀元前には、格別、北の地が輝かしい復興をみたというような歴史的出来事はありません。それどころか、722年には北イスラエルは滅び、586年には南ユダ王国までもバビロン帝国に亡ぼされてしまいカナンの地は北から南まですべて失われてしまうのです。では、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」とは何を指しているのでしょうか。これはイザヤの時代からはるか700年未来に起こるべき、ひとりの男の子イエス・キリストの誕生という出来事を指していたのです。


3.成就ーーみどり子、そして王として

 ヘブル語でメシヤ、ギリシャ語でキリストとは、救い主という意味のことばです。神は最初の人が神様に背いて堕落し、惨めな状態に陥ったときから、女の子孫として救い主を派遣すると約束してくださいました(創世記3:15)。その救い主は紀元前2000年ころの人、イスラエル民族の先祖にあたるアブラハムの子孫として生まれることが預言され、そして、紀元前1000年ころダビデ王の家系に生まれることが預言されてきたのです。
 そのお方が、霊的暗黒に閉ざされてきて、ついに亡びたかつて北イスラエル王国があった地に、「ひとりのみどり子」として生まれるのだということが預言されたのです。その救い主キリストはどのようなお方であると、イザヤは預言したのでしょうか。

「 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、
 その名は「不思議な助言者、力ある神、
 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
 さばきと正義によってこれを堅く立て、
 これをささえる。今より、とこしえまで。
  万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」

 その救い主はまず「ひとりのみどり子」として来ると、不思議なことが告げられています。たしかにすべての人は、みどり子として生まれます。けれども、格別に、この救い主はひとりのみどり子として到来するのだと述べられています。救い主キリストの到来は、女が産む赤ちゃんとしての到来であるというのです。私たちはクリスマスというのが、赤ん坊イエス・キリストの誕生の出来事であることをよく知っています。そのことを預言者イザヤは告げたのです。世界の救い主である王が、まったく無防備な赤ん坊として現れたということは、なんと不思議な神様のご計画でしょうか。もっともへりくだったやさしい姿をして、救い主は登場するのです。
 それはいわば、天下の副将軍水戸光圀が、好々爺の越後のちりめん問屋の姿に身をやつし、お忍びで地方を訪れたのにたとえられるでしょう。光圀はなぜ副将軍としての威儀を整えて旅をしなかったのでしょうか。それはその地方の真相を探るためです。もし威儀を整えて旅をしたら、日ごろ悪を働いている家老や代官たちが副将軍が来るというニュースを聞いたなら、すぐに悪事のもみ消しに掛かるからです。
 なぜイエス様はみどり子として来られて、長じても大工の息子として来られたのでしょうか。そして十字架に磔にされるまでへりくだられたのでしょうか。それは私たち人間の本性が神の前に露わにされるためでした。高ぶった人は、赤ん坊など、大工のせがれなど、十字架につけられる愚かで弱弱しい男など、ばかばかしくて神として拝むことができようかと思い、つまづくのです。しかし、己が罪を認めてへりくだる者は、いともやさしいみどり子として救い主がおいでくださったことを、そして十字架の死にまでも従われたことをもったいなく思い感謝して礼拝するようになるためです。
 しかし、そのみどり子は、「不思議な助言者」「力ある神」「永遠の父」「平和の君」なのです。「不思議な助言者」とは何か。王は側近として助言者を置いて知恵を得たものですが、その来るべき王は他の誰からも助言を得る必要のない自らが不思議な助言者であられる知恵に満ちたお方なのだというのです。それもそのはず、その王は「力ある神」であられるからです。日本では神々と呼ばれるものが八百万(やおよろず)もあるというのですが、聖書の世界のおいて神とは唯一絶対のお方です。「イスラエルよ、聞け。主は唯一である。」ということばは旧約聖書でもっともよく知られた言葉の一つです。その神とは、天地万物を無から創造した絶対者です。この神以外のものは決して神としてあがめてはいけません。ところが、天から救い主として遣わされるお方は「力ある神」なのだと預言者は告げているのです。これはありえないほど不思議なことです。天地万物の主権者である方が、ひとりのみどり子としてこの暗闇の地ガリラヤに来られたのです。
 その救い主はまた「永遠の父」と呼ばれます。善良な王が現れても、その王が死去すると国はまたも乱れてしまうということが繰り返されてきました。しかし、このたび神が直接に使わされる不思議な助言者、力ある神と呼ばれる王は、永遠に世を治めたまうのだというのです。そして、その王は「平和の君」と呼ばれます。永久に続くかに見えた大帝国アッシリヤは、その死後わずか30年ほどで滅亡してしまいました。しかし、神が遣わしてくださる王は「平和の君」です。人を殺す戦によってではなく、自らが敵のために十字架につくことによって神との平和をもたらされたのです。
  主イエスは、お忍びの姿で、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であることを隠していらっしゃいました。それは私は見えると高ぶる人が見えず、私は見えませんと嘆いている人にのみわかるようにしておいでになられたのです。そして、今、そのキリストの治めたもう王国とは世界中にひろがる聖なる公同の教会を意味しています。教会の王は、政府や地上の王たちではありません。ほかでもない父が遣わされた力ある神、不思議な助言者、平和の君であるイエス・キリストです。
 水戸黄門は最後に「この印籠が目にはいらぬか」と正体をあかして裁定をくだします。そのように、やがて神がお定めになっている世の終わりの日、キリストは誰の目にも明らかなかたちで不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君として、ふたたびおいでになります。今、私たちはすでにおいでになった王なるキリストを霊の眼で見ながら、やがておいでになる王キリストを待望するのです。待降節は、すでに来られたキリストを思い、今教会に王権を振るわれるキリストにひれ伏すと同時に、やがてこられるキリストを待望するときなのです。