苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神学生たち

 「友人たちと車に乗り合わせて行きますので、教会史概論の最終講義をしてもらえませんか。」先週末、神学生の創君から電話があった。インフルエンザのために学校が一週間閉鎖になってしまい、18世紀から20世紀を扱う二回分の講義ができなくなってしまったからである。
 休講対策としては、以前、あるキリスト教誌に載せたことのある原稿をHPに公開してあるので、それを読んで感想をメモしてもらうという課題を出した。だが、きわめて限られた紙数のなかに事柄を単純化して記した雑誌原稿であるから、将来の教職をめざす神学生たちにとっては、甚だ不十分なものである。格別、自由主義神学の挫折と弁証法神学の登場あたりは不十分きわまりないものであると今は考えている。
 二年ほど前、新潟のある方から文化主義化した自由主義神学を乗り越えたバルトのことを、立場はちがっても、それはそれとしてきちんと評価すべきであるとご指摘をいただいたことがあった。その通りなのである。実は、筆者は大学時代、バルトの弟子である小川圭治教授からキルケゴールティリッヒを教わり、いつも「バルト先生が、バルト先生が」と懐かしげにいう小川先生に、いささか論争めいたことを挑んだことがあったので、逆に、自分の中でバルトの問題点のみを意識しすぎてきたのかもしれない。当時、福音派では聖書論論争の盛んな時代であった。
 こんなわけで小さな者の講義を聞くために信州までわざわざ来たいと言ってくださるのは、むしろこちらのほうがありがたい。力を尽くして、創君の言う「最終講義」をしたいと思う。
 それにしても、今回のことで思うのは、最後まで講義の計画を立てても、インフルエンザが流行っただけで手も足も出ないというのが、人間の脆い現実なのだということである。
 このあたりはだいたい海抜900m。周囲の山々はほぼ冬枯れになりつつある。急に雪など降って来られなくならないようにと祈る。おまけとして八ヶ岳を望む温泉にも浸からせてあげたい。
「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」ヤコブ書4章13-15節