苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パルカル「考える葦」についての誤解2

 「人間の偉大は、人間が自己の悲惨なことを知っている点において、偉大である。樹木は自己の悲惨なことは知らない。それゆえ、自己の悲惨を知るのは悲惨なことであるが、しかし人間が悲惨であることを知っているのは偉大なことである。」(L114、B397)
 パスカルが人間が考えることにおいて高貴であり尊厳があるといったのは、デカルトに端を発する近代合理主義がいうように人間が理性の力で自然をねじ伏せてしまうことができる力を持つという意味ではない。むしろ、人間は自分が宇宙の中で、「ひとくきの葦」にすぎないことをわきまえているという点で偉大だと言ったのである。自らが宇宙にかんたんに押しつぶされてしまうごくちっぽけで弱弱しく悲惨な者であるということをわきまえているという点で偉大だと言ったのである。
 なぜ己の悲惨を知る者が偉大であり、高貴であり、そこに道徳の根源があるとまでいえるのだろうか。このことは人間だけを見つめていてわかることではない。主イエスによる祝福のことば「心の貧しい者は幸いである。天の御国はその人のものだから。」と同じで、神の恵みがあるからこそ、己の悲惨を知ることが偉大だといえるのである。イザヤ書に記された来るべきメシヤは「傷ついた葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すことのない」お方である。
 『パンセ』はパスカルの「キリスト教弁証論」執筆のためのメモの集成であるが、その中に、弁証論の構想についての断章がある。「第一部、神をもたない人間の悲惨。第二部、神をもっている人間の至福。」(L6,B60)。まず神を信じない読者に己がいかに悲惨であるかを悟らせることによって、神の御前に立ちかえらせるというのが「キリスト教弁証論」の構想だった。パスカルが、「考える」ことが人間の高貴、尊厳、道徳の根源といったのは、理性を持った人間の偉大さを賛美しているのではなく、人間が自らの悲惨をわきまえることが、神のもとに立ち返るためのステップになるという意味なのである。
 だからパスカルのパンセ(思考)とデカルトのパンセは、まったく別物なのである。デカルトのパンセは人間の自律の根拠である。デカルトは、それでもって神の存在までも疑ったり、証明したりしようとした。これに対して、パスカルのパンセは、神ぬきで自律的に生きられると思い上がっている人間が、実は悲惨なものであることを悟らせるのである。
 しばしば、近代の行き詰まりはデカルト以来の理性主義の行き詰りであるというような言い方がされる。事実そうであろう。そして、近代(モダン)の行き詰まりに対して、ポスト・モダンを唱える人々は非合理主義に向かう。しかし、ほんとうは、むしろ、パスカルのパンセに帰るべきなのだと思う。パスカルのパンセとは、己の悲惨をわきまえて神の御前に立ち返り、神の下で理性の限界をわきまえつつ、これを賢明に活用する思考なのである。