苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パスカル 「考える葦」についての誤解1

 「人間は自然のうちでも最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
 それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえ、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根原がある。」(L200,B347 松浪訳)

 この「考える葦」の断章は、人間は自然的な存在としてのひよわさにもかかわらず、理性の力で自然を克服することができるとした近代合理主義の宣言であるかに見えるらしく、そのような解説文を見ることが時々ある。つまり、解説者たちは、デカルトの「われ思う、ゆえに、われあり」に端を発する近代合理主義的自我を、パスカルは「考える葦」の断章で表現したというのである。しかし、これは恐らくかなり的を外した読みである。(つづく)