苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

賛美論3 賛美をするときには偽善者たちのようであってはいけません

 神学校の同期生白石剛史牧師は神学校の卒論『教会音楽の本質とその周辺』で、カルヴァンの「賛美とは音楽をともなった祈りである。」という命題を引いて、そこから賛美論を展開していた。たしか東京基督神学校の紀要『基督神学』第5号に掲載された。白石師は「牧師は自分が音楽に通じていない場合、賛美歌について自分が指導する資格がないように思い込んでいる場合がある。しかし、賛美歌は音楽を伴う祈りであるのだから、賛美について聖書から教えることは牧師にとっての重要な務めである。」と主張していた。まことにそのとおりである。
 主は言われた。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:5)祈りは神に向かってするものである。ところが昔のユダヤの偽善者たちは、自分の敬虔さを人に見られたくて聞かれたくて目に立つところで祈りをしていた。賛美が、単なる音楽演奏ではなく、音楽をともなった祈りである以上、賛美もまた、人に聞かれたくてするものではなく、神に向かってささげるべきものである。神は虚栄の祈りを受け入れられないように、虚栄のための賛美歌を受け入れたまわない。
 また主は教えられた。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:5)自分の祈りが単なる虚栄なのか、それとも神に向かってささげる本物の祈りであるかを見分けるには、自分が日常的に人が見ていないところでも神に向かって祈っているか、それとも人前に出るときにだけ美しいことばをもって祈っているかを吟味すればよい。日ごろ独りで祈ってもいないのに、多くの人が集った集会になると俄然、麗しいことばを連ねて祈る傾向がもし自分にあるとしたら、自分の祈りが偽善であることを認めて悔改めるほかない。同様に、日ごろ主にむかって賛美を歌うことなどないのに、集会のときだけ人前に出て朗々と歌っているとするならば、その賛美はいかがなものだろうか。日常的に独りでの主との交わりのなかで、主を賛美し、そして集会でも賛美するものでありたい。
 とはいえ、主はこのことをもって独り奥まった部屋での祈りのみが正しいとして、人々の集いのなかで祈ることを禁じておられるのではない。主は別の箇所で、主にある兄弟の戒めが彼の魂の救いに役立つようにということが語られる文脈であるが、「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)とお勧めになっている。また初代教会の祈りの姿の描写においても、聖霊降臨を待ち望んで「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒1:14)とあり、そういう場において、使徒ペテロは立ち上がって、「すべての人の心を知っておられる主よ。云々」(使徒1:24)と祈っている。当局に伝道を禁じられたことが教会に報告されたとき、彼らはともに大胆に祈ったという記事が残されている(使徒4:24−31)。いずれの箇所も、教会がともに祈ることを是認しており、その場合だれかが代表して祈って、みながその祈りに心合わせるということがなされたであろうことは容易に推測できる。
 主が警告なさっているのは、虚栄・偽善の祈りである。では、集会においてひとり立って祈る祈りとはそもそもなんなのか。それはその集会に集う兄弟姉妹の代表としての祈りであると位置づけられる。会衆は「この人の祈りは私の祈りです」という思いをもって「アーメン」と唱和する。同様に、集会において会衆の前で歌われる「特別賛美」は、会衆の代表としての賛美として位置づけられよう。このことを、演奏者も会衆もわきまえて、特別賛美をする人はなによりも会衆がアーメンといえるように工夫をする必要がある。はっきりとみなに聞こえるように歌う、意味のわかることばで歌うと言ったことが基本であろう。(つづく)

ロダの耳はダンボみたいです。娘による撮影。