苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

賛美論2 賛美歌の歌詞について

 人間と天使による神賛美の特質は、ことばを伴っているという点にある。ことばは、我々の心を、偶像崇拝に傾きがちな盲目的情動から解き放ち、神に向けさせる。聖書も「霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」(1コリント14:15)と奨励している。ことばによる賛美には必ずしも音楽が伴っていなければならないわけではなく、詩篇の朗読をもって神を賛美することは可能であることから明らかなように、賛美においてはことばが主役であって、音楽は従である。では、ことばが賛美においてその役割を果たすためには、どのような点に留意しなければならないであろうか。ごく簡潔に述べてみたい。
 グレゴリアン・チャントのようなラテン語歌詞の賛美歌のばあい、理解のための助けをする必要がある。翻訳した歌詞を歌うか、もしくは、会衆に歌詞の翻訳シートを提供する必要がある。もちろん聖歌隊のメンバー自身が、意味を知らないで音声を発しているようなことでは情けない。それで、どうしてアーメンと唱和出来るであろう。カトリックラテン語賛美歌の場合、その歌詞にイエスの母マリアにかんしては特に非聖書教えが含まれている可能性があるのだから、内容を吟味することが必要である。
 「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイ6:7)と主は戒められた。だから、感情の高揚を意図して同じフレーズをいたずらに繰り返す最近のプレイズの使用法は改める必要がある。またもう少し内容豊かな歌詞を考えてほしい。賛美歌における歌詞は霊とともに知性をともなって主を賛美するためにあるのだから、歌う者たちが神と神の御旨を理解するのを助けるものであることが望ましい。
 他方、理解困難な文語歌詞には、異言の祈りと同じ課題がある。その課題を『新聖歌』から三つほど挙げて、対策を提案したい。
 一つ目は難解語彙。「主のみいつとみさかえとを 声のかぎりたたえて」という「みいつ」を三位一体と誤解している向きはとても多いし 、クリスマスに「悪魔のひとやを打ち砕きて♪」と歌いながら「悪魔の一矢」だと思い込んでいる人も多い 。私もかつて、そう誤解していた。「みいつ」は「御稜威」と書いて威光の意。「ひとや」は牢屋のこと、つまり、「人屋」である。先日、ある集会で聖餐式にあずかったとき、新聖歌49番の歌詞がスクリーンに映し出されたのはよかったのだが、2節で「子はわがため十字の上に釘もて裂かれしみからだなり」とあって、びっくりした。「こは」は「これは」という意味である。3節4節の「こは」も「子は」ではない。
 二つ目は現代文法との違いである。文語文法における意志の助動詞「ん(む)」は、現代語では打消し助動詞と同じ形なので、「意味不明」と感じながら歌っている若者もいたりする。「あ〜感謝せん」というと、「あ〜感謝しない」というふうに誤解されたら眼も当てられない。また、文語における接続助詞「ば」は、「未然形+ば」なら「もし――ならば」と仮定を意味し、「已然形+ば」なら「――なので」と理由を意味する。だから、「主にすがるわれに悩みはなし 十字架のみもとに荷を下ろせば」は、「下ろせ」は已然形だから、「十字架のみもとに荷を下ろすので、主にすがる私に悩みはない。」と確信に満ちた賛美である。「もし荷を下ろすならば」という仮定の意味なら、「荷を下ろさば」である。
 三つ目は、文語歌詞の文法的ミス。たとえば新聖歌169:3と293には係り結びのミスがある。169:3は「御霊の御神は世に類い無き」は、「御霊の御神は世に類いなし」か「御霊の御神ぞ世に類い無き」かに直すべきである。また293は「汝が神こそわが神なり」は「汝が神こそわが神なれ」でなければならない。
 また、『聖歌』における平仮名歌詞を漢字に書き換えるにあたって犯したミスがある。新聖歌49:5、399:1,2そして515:1の「見失せ」は「身失せ」の間違いである(さとる氏の指摘で「御失せ」よりもこのほうが適切と思い私見を改めます。2010年5月12日)主は我らの罪のために死なれたのであって、見失われたのではない。
 こうした文語歌詞の難点についての対処法としては、一つは牧師がその日の礼拝で歌う賛美歌について、会衆に歌詞の説明をする時を設定するとよい。週報にメモするのもよい。第二に、賛美歌集の編者は難解語がある場合、歌詞に注をつけて欲しい。実際『新聖歌』では先述の「みいつ」「ひとや」に注が付けられているのはありがたい。そして、第三に文語は現代語に比して表現力が豊かで美しく捨てがたいものもあるが、やはり基本的には口語の歌詞に改訂していくべきであろう。神が、新約聖書を啓示するにあたり荘重な古典ギリシャ語でなく、平易なコイネーギリシャ語をお選びになったことを思い合わせれば、そう言わざるを得ないだろう。(つづく)