苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

賛美論1 音楽を偶像化してはならない


 この際、賛美歌について聖書から教えられる所をメモしていきたい。多くは、筆者がかつて書いた「牧会者から見た教会音楽」と2009年春の小海キリスト教会修養会での話からの抜粋である。

 「主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。・・・中略・・・海の巨獣よ。すべての淵よ。火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。」(詩篇148:3−10)賛美は人間のみの特権ではなく、全被造物の務めである。山々や動植物はことばを用いずに賛美している。このことから推論すれば、歌詞を伴わない楽器演奏のみによる神賛美も不可能ではない。
 けれども、ことばを伴わない賛美には、太陽の輝きや森のざわめきや小鳥のさえずりや白銀の山などの神賛美と同じ限界がある。それは、その賛美は創造主に向けられているかどうかが明確でないことである。実際、被造物のことばを伴わない賛美が不明瞭であることゆえに、多くの人間は誤解して、被造物自体を神々として崇めてしまってきた。同様に、歌詞を伴わない楽器演奏は、感動的であればあるほど音楽自体や演奏者を偶像化する危険がある。
 アウグスティヌスはこの問題に誠実に取り組んだ。「このようにして私は、音楽がひきこむ快楽への危険と、にもかかわらず音楽が有している救済的効果の経験とのあいだを動揺しています。しかし、もちろんいまここで確定的な判決を宣言する気はありませんが、どちらかというと、教会における歌唱の習慣を是認する方向にかたむいています。それは耳をたのしませることによって、弱い精神の持ち主にも敬虔の感情をひきおこすことができるためです。それにしても歌われている内容よりも歌そのものによって心動かされるようなことがあるとしたら、私は罰をうけるに値する罪を犯しているのだと告白します。そのような場合は、うたわれているのを聞かないほうがよかったのです。」(『告白録』10:33:50山田晶訳)
 音楽の賛美における効能は、知性だけでなく感情や意志にまで働きかけて我々を神賛美にかきたてることにある。反面、音楽は人をかなでられる音曲に酔っ払わせて、神賛美を忘れさせ、音楽自体や演奏技術を賛美するという偶像礼拝に陥らせてしまうことがある。特に、現代は歴史上例を見ないほど異様に音楽文化を高く評価する時代であるだけに注意をしなければならない。
 音楽は神を賛美することばに仕える。音楽は神賛美の手段である。したがって、歌詞さえ聖書的なら音楽や演奏法は何でも良いというわけではない。その歌詞がめざしている敬虔な内容――神崇拝・悔い改め・感謝・献身など――に、会衆を導いていくのにふさわしい曲を工夫すべきである。かつて賛美歌に流行歌のメロディが採用されたという歴史上の例をあげて、賛美歌につける音楽はジャンルなどなんでもよいのだと主張する人がいるが、いかがなものだろうか。音楽の心理的・教育的作用については、古代からピュタゴラスプラトン孔子も着目している。プラトンは『国家』のなかで、教育的な観点から音楽には善悪の性格があり、その性格が聴者に影響すると考えている。現代では音楽心理学によって、音楽がどのような心理的効果をもたらすかといったことも明らかにされつつある。こうした研究もふまえて、賛美歌作者は歌詞の目的にふさわしいメロディを付けて欲しい。また、演奏者も、世の「アーチスト」のような自己顕示目的の演奏は厳に慎み、その賛美歌の歌詞の意図を悟り、会衆の心の目が音楽でも音楽家でもなく、ただ神に注がれるために奏でてほしい。(つづく)