苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

札幌での伝道会議

 21日から始まった札幌での日本伝道会議に出席して、昨夜、帰宅した。2000人も会議に参加し、朝はナレンドラ先生というインドの牧師さんのメッセージを聞き、そのあとさまざまな分野に分かれての会、夜は聖会というパターンだった。
 私は、こういうたくさん人が集まる会議は苦手なほうで、もう30年近く前に神学生時代に京都での伝道会議に出席して以来、ずっと出ていなかった。今度の会議には自分の担当部署があったので、出席せざるをえなかったのである。だが、この会議での個人的収穫は出会いだった。実に30年ぶりという方たちに会うことができたのである。さすがに30年近くもたつと、おたがいに変貌するものだ。外なる人は衰えるのである。でもクリスチャンには「内なる人は日々新たにされる」というめぐみが与えられているのは、うれしいことである。
 また、新しい出会いも収穫だった。FHI(国際飢餓対策機構)の神田英輔先生の名はずっと以前からうかがっていたが、今回はじめてお目にかかることができた。さほどお話もできなかったのだが、なんだかうれしくなってしまうお人柄だった。これからの交流が楽しみである。
 会議の内容としては、わが大樹先生の主題講演は実にみごとなもので、ベッテルハイムの琉球伝道以来のプロテスタント宣教の過去163年間を振り返り、現状を把握し、未来を展望するにふさわしいものだった。
 聖会講師の村上宣道先生が75歳と聞いて、びっくりした。時が過ぎたのだなあ、当たり前か、自分も半世紀生きてしまったのだからと思った。村上先生の聖会メッセージには、悔い改めふるい立たせられるものがあった。また希望を与えられた。この自分の遣わされた場において、具体的に伝道をもっと一生懸命にしようと思った。
 いただけなかったのは、うるさすぎる今風の賛美のときだった。ギターやドラムを使うことに文句は言わないけれど、あんなに大音量で、あれほど同じフレーズを繰り返す必要がどこにあるのだろうか。元気なのはいいのだが、ちょっと度を越している。でも、あれがいいという人もいるんだろうなあ・・・。こういうことはかなり主観に左右されるのだろうが、同年輩の人に聞くと異口同音の感想なので、聖書に立ち返って、ちょっと考え直す必要があるのではなかろうか。(カテゴリー「賛美歌」参照)

 そうそう、もうひとつのすばらしい出会いがあった。宿の近く狸小路という商店街に「魚平」というお店があった。海鮮どんぶりというメニューがあって、分厚いさしみがそれこそ山のようにのっかっていて、1000円だった。それにアラ汁が無料でついていた。この荒汁が魚の臭みをしょうがと鷹の爪で消してあって、実においしかった。筆者は、このアラ汁をつい3×2杯も食べてしまった。日ごろ、信州の山奥に住んでいて新鮮な魚にはお目にかかれないので、特にごちそうだった。
 体調がいまひとつで、宿屋の寝台ではあまり寝られなかった。帰宅して奥さんと子供と犬の顔を見て、畳の上で寝て一夜明けたらすっきりしていた。やっぱり、うちが一番。