苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愛の分析と三位一体

私たちプロテスタントは、中世スコラ哲学というと「針の上に何人の天使が踊れるかなどということを論じた空虚な哲学化した神学」というふうに断じてしまいがちである。けれども、私はもうずいぶん前になるが3年間カトリック信徒の哲学者の方たちと交流する機会があって、この方たちにプロテスタントにない「余裕」というものを感じた。スコラということばは、ギリシャ語のスコレー(余暇)に通じることばである。この方たちとの交流を通して、どうやって伝道しよう、どうやって教会形成をしよう、どうやったら家庭が平和になるか、どうやって信仰継承しようか・・・これらのことは勿論たいせつな実践的課題だが・・・こうしたことにのみプロテスタントは汲々としていて、神ご自身をどれほど慕い求めているだろうか、どれほど神を知っているだろうかと反省させられたことがある。
 12世紀、サン・ヴィクトール修道院のリチャードは、愛を分析することによって、神の三位一体を慕い求めて、次のようなことを書いている。
 「最高善、まったく完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全な形で存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。・・・しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛をもっているとはいえない。したがって愛情が愛になるためには、他者へ向かっていなければならない。それで位格が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。
 もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって愛に第三者が参与することを許さないことは、ひどい弱さのしるしである。もしそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることはいっそう優れたことである。最も優れたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことはいっそう偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そう。最高の方に最もよいことを帰そう。
 ゆえに、前の考察で明らかにしたあの二人の相互に愛し合う者(父と子)の完全性が、充満する完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である。・・・
 もしだれかが他者を愛するとき、一方だけが他者を愛するならば、そこには愛はあるが相互愛はない。また、もし二人が互いに愛し合い、相互に心から愛し合うならば、甲の愛情は乙へ、乙の愛情は甲へ向かい、いわば二つの異なった対象へ向かっているとき、彼らは二人とも愛情はもっているが、そこには共通な愛は存在しない。共通な愛は、二人が一心同体となって、第三者をともに愛するところに存在する。すなわち、二人の愛は、第三者への愛の炎で一つにとけてしまうところに存在する。そこから次のことが明らかになる。すなわち、もし神に二つの位格しか存在せず第三の位格がないとしたら、神において共通な愛は存在しないであろうということである。なぜなら、私がここで問題にしている共通の愛とは、ありきたりの共通な愛ではなく、創造主が被造物に対して決して持ち得ないほど最高の共通の愛であるからである。」
 リチャードは論理的分析によって、神が三位一体であることを証明しようとしているわけではないだろう。サン・ヴィクトールの修道院服従と愛と祈りの生活のなかで、経験してきたことを通して、彼が信じている神を理解しようと努めているのである。
 関心あるかたには、P.ネメシェギ神父の『父と子と聖霊』(南窓堂)をお勧めしたい。
 
 朝の光注ぐ庭で散歩する