苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ13 裁判員の適性

 先にメモ5で、裁判員制度との関連で刑務官について書いた。<江戸時代まで刑務官に対する差別が社会にはあったが、それは不合理なことである。古代イスラエルにおける民衆による石打の刑という処刑方法は、特定の人にこの血なまぐさい仕事を委ねるのではなく、社会構成員みながこの務めを担うという意味で意義あることであった。裁判員制度には、石打の刑に通じるところがある。>社会構成員としての責任感が大事なことはいうまでもないが、それとともにその職務に対する適性についても考慮すべきだと思われる。ここではその観点で考えてみる。
 江戸時代の死刑執行人には身分や世襲ということがあったゆえに差別が生じたのであるが、現代の刑務官は身分や世襲とは無関係に、本人の意志でその職務を選択する。むしろ、刑務官は、社会正義のために悪人を罰し矯正することに使命感をもって、刑務に携わる人々であると理解すべきであろう。彼らはその職務に対する適性を持つ人々である。
 こうした適性に思い当たったのは、以前読んだデーヴ・グロスマン『戦争における人殺しの心理学』(ちくま学芸文庫)という本を思い出したからである。著者は実戦経験がある米陸軍士官学校の心理学・軍事社会学教授である。第二次大戦が終わったとき、米軍では、米兵が実戦において敵兵にむかってどの程度、実際に発砲したかということを調査した。その結果、驚くべきことに80パーセント〜85パーセントは敵兵に向かって発砲していないということが判明した。これはどの国の兵士でも同じ程度だそうである。この調査をした米陸軍准将S.L.A.マーシャルは言う。「平均的かつ健全な者でも、自分と同じ人間を殺すことに対して、ふだんは気づかないながら内面にはやはり抵抗感を抱えているのである。その抵抗感ゆえに、義務を免れる道さえあれば、なんとか敵の生命を奪うのを避けようとする。いざという瞬間に、兵士は良心的兵役拒否者となるのである。」(pp82-83)
 そこで米陸軍は、発砲率を15パーセントから90パーセントへ向上させる特殊な訓練を考案し、実施するようになった。その結果、ベトナム戦争では計画通りに発砲率が上がった。けれども、よく知られるように、ベトナム戦争はその後の米国社会に深刻な病をもたらした。非常に多くの帰還兵たちは精神的に病み、戦死者よりも帰還後の自殺者の方が多くなり、彼らの家庭は崩壊し、社会に犯罪が激増した。「殺人適性のない標準的人々」を訓練によって殺人ができるように一時的に改造したのだが、彼らには本性的には殺人適性がないので、心的外傷を負ってしまったのである。「殺人適性」などというと殺人鬼みたいだが、そういう意味ではない。いわば人間集団の中には「戦士型の人」とか「羊の群れの中にいて、狼に立ち向かっていく牧羊犬」のような人々がいるというのである。
 この事実から考えると、裁判にも適性のある人々がいると思われる。悪を罰し、時には死刑判決を出す適性のある人々がいるのである。ところが、裁判員制度においては、適性に関係なく、くじびきで裁判員が選ばれる。すると特に裁判員として、悲惨な証拠写真を見せられたり、死刑判決を出したりした場合、それによって心的外傷を負う人々は少なくないであろう。「処刑員制度」でないだけましではあるが、適性という観点からすると、裁判員制度というのは、相当国民に無理をかける制度である。裁判員制度では、こういう問題が起こることは想定していて、臨床心理士による無料カウンセリングを5回まで受けることができることになっている。だが、やはり、裁判員選出には法律に関する素養とともに適性という観点からも、なんらかの改定の必要があると思われる。