苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ9 死刑制度の是非 その2

ローマ書13章は、神が剣の権能を上に立つ権威に授けていると述べている以上、死刑を容認していることは認めざるを得ないと思う(他の解釈の可能性があると思われる読者はぜひコメントをください)。では、これを時代・文化を超えた普遍的原理として積極的に述べているのか、それとも、当時のローマ帝国の現状を消極的に容認しているのか。その答えを得るには、まずここで死刑が認められている目的はなんであるかを考える必要がある。
 ローマ書12章末尾からの文脈の強いつながりはないと判断して、13章1節から独立したテーマとして神が立てた上の権威の役割が述べられていると理解する場合、ローマ書13章1−7節の趣旨は、神のしもべである上に立つ権威の任務は、第一に社会秩序の維持(1−5節)、第二は徴税による富の再分配である(6−7節)ということである。とすると社会秩序の維持という目的を達成するための手段として、上に立つ権威に剣が託されているということになる。だとすると、もし社会秩序の維持のために死刑制度以上に有効な方法があるならば、それを採用すればよいということになるであろう。つまり死刑についてローマ書は必須のこととして積極的には教えてはいないということになる。
 しかし、ローマ書12章末尾で罪に対する個人の復讐が禁じられ、神の復讐に委ねるべきことが述べられており(19節)、そのつながりの中で13章が国家の任務を教えているとするとどうなるか。神のしもべである上の権威が悪をなす者に対して怒りをもって剣の権能を行使するのは、罪に対する正義の神の復讐の実現のためであるということになる。すると、ローマ書はかなり積極的に死刑制度を肯定しているということになる。神の正義の復讐の実現が目的であるのだから、その裁判が誤審であった場合には、神の意図されたここと正反対の結果を生むのだから、裁判に当たる者は「疑わしきは罰せず」の原則にきわめて忠実であることが求められる。
 いったい、どちらの解釈が正しいのだろうか?筆者としては、文脈のつながりを強く取るか、弱く取るかについていえば、どちらも可能であるように思える。よって、この問いに答えるには、別の方面から考えなおす必要がある。