苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書の解釈と適用

 神の啓示は、聖書において、時代を超えてすべての人に与えられている。しかし、その啓示の方法は特定の時代・文化の中に生きる具体的な人々に対して与えられるという方法であった。だから、聖書を構成する巻物は、とりあえず当時の読者に理解できるように、その文化の言語や習慣を用いて書かれている。もし、そうでなければ、書かれた当時それは誰にも理解できなかったであろう。たとえば古代イスラエル人に、現代日本語で啓示が与えられても通じなかったということである。
 では、それらの啓示はその時代・文化の中にいる人々にしか意味がないのだろうか。もしそうであるとすれば、現代の日本人が古代オリエントの文書である聖書を読む意味はまったく無い。実際には、時代と文化を用いて啓示されたのではあるが、時代も文化も超えた普遍的メッセージが、そこに読み取られるからこそ、聖書は今日にいたるまで多くの人々に読まれてきた。
 時代・文化はいわば器であって、その器の中に盛られたごちそうが普遍的メッセージである。聖書解釈においては、まずその時代の文脈をわきまえつつ普遍的メッセージを読み取らなければならない。特に、その時代の文脈のなかで見てみると、なにか当たり前ではないことに注目することがメッセージを読み取るコツである。そして、読み取った普遍的メッセージを、今度は読者自身が所属している時代・文化の中に盛りなおすのである。
 たとえば、出エジプト記21章には奴隷の扱いについての律法が出てくる。現代日本と比較して、「奴隷制などとんでもない」とこれを非難してもほとんど意味はない。まず比較すべきは、聖書のこの箇所に記されている奴隷制と、当時のエジプトなりメソポタミアにおける奴隷制である。すると、出エジプト21章の奴隷に対する扱いが非常で配慮に満ちており、実質、日本で言う年季奉公のようなものであったことがわかる。すると、神がその時代にあって、たとえ奴隷という立場であっても人を家畜でなく人として配慮せよとおっしゃったのだとわかるだろう。とすると、ここから読み取るべき時代を超えたメッセージは、恐らく「すべての人はその身分にかかわらず、神のかたちとして造られているのだから尊い者として扱われるべきだ」となる。そして、この普遍的メッセージを、現代のわたし達が生きている時代文化のなかに適用するのである。

 
 娘が育てたミニトマトです。お見事。