苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ7 裁判員制度の欠陥

 詩篇では神のことを、「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。」(詩篇68:5)と呼ぶ。また、出エジプト記には次のようにある。「あなたがたの神、【主】は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。」(出エジプト10:17−19)なぜか。みなしご、やもめ、在留異国人という社会的に弱い立場の人々は虐げられることが多く、彼らののさばきも公平に取り上げられることがなかったという堕落したイスラエルの現実の裏返しである。
 裁判は、法に照らして公平でなければならないことはいうまでもない。権力者におもねる裁きをしてはらないし、逆に貧しい人だからといって、その人を特に重んじてはならないのは当たり前である。「悪を行う権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。」(出エジプト23:2,3)「さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」(申命記1:17)
 しかし、それにもかかわらず、聖書には圧倒的にみなしご、やもめ、在留異国人に対する配慮をせよ、彼らのために正しい裁きをせよということばが満ちており、彼らを軽んじ虐げる不当な裁きに対して神が怒りを燃やされるといわれる。ところで、神の栄光を世界にあらわす祭司の王国としてスタートしたイスラエルが、南北分裂の後、結局、南北王国とも神によって滅ぼされた理由は、預言者たちのことばによれば、二つある。一つは彼らが偶像崇拝にふけったことであり、もう一つは、イスラエルにおいて、みなしご、やもめのために正しい裁きが行なわれなくなってしまったことにある。預言者イザヤが次のように叫ばなければならなかったのは、イスラエル社会がそうした不公正な社会になっていたからにほかならない。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」(イザヤ1:16 、17)「ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。」(イザヤ10:1,2)
 なぜ、古代イスラエルにおいて、みなしご、やもめ、在留異国人のさばきは取り上げられなくなり、権力者、富者にばかり有利な裁きが行なわれるようになったのか。そして神の怒りを買って滅ぼされるにまでなったのか。理由はワイロである。「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、【主】が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」(申命記16:19,20)裁判官はワイロを取ってはならない。また裁判官がワイロを取れない仕組みにすることが重要である。
 今般スタートした裁判員制度の欠陥の一つは、ここにある。専門職裁判官の判断が過ちがちなのは、刑事事件ではなく、政府・企業・銀行を相手取った裁判なのである。なぜなら、刑事事件で強盗犯から裁判官にワイロが渡ることはまずあるまいが、政府・企業・銀行を被告とした裁判においては、見えない形でワイロと呼ばれないワイロが裁判官にわたっているからである。むろん、今日の日本で、被告から直接わたされる金品としてのワイロを受け取る間抜けな裁判官はおるまいし、いたとしても例外であろう。しかし、裁判官は国家官僚であり、政府の行動に対して違憲判決など出すことは、自分の不利益につながるので、政府の行動に関して厳しい判決を出すことはまずない。特に最高裁が政府の行動について違憲判決を出すことは、ほとんど無いに等しい。裁判官は見えないかたちで「出世」というワイロと呼ばれないワイロを政府から受け取っているからである。また、大企業・大銀行を被告とした裁判に勝ち目がないというのは、大企業や銀行の顧問弁護士になることが裁判官の退職後の花道、もっと露骨にいえば天下り先であるからである。政府を被告とする訴訟や、大企業・銀行を被告とする訴訟では、裁判官に法に基づいて厳正な判決を出すことを期待することはむずかしい。だから、政府・企業・大銀行を被告とする民事裁判においてこそ、裁判員制度が活用されるべきなのである。ちなみに最高裁では行政訴訟での原告勝訴率は10パーセント程度だという。
 刑事事件の第一審にのみ裁判員制度が用いられ、「司法への国民の参加」「司法の民主化」と宣伝される今般の状況には、どうも欺瞞の臭いを感じないではいられないのである。(メモ2を参照)