苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ6 応報刑か、教育刑か

 司法による刑罰には応報刑という考え方と教育刑という考え方がある。意味は読んで字の如しであるが、一応説明すれば、罪に応じて報いとしての罰を与えるというのが応報刑であり、今後、罪を繰り返さぬように教育として罰を与えるというのが教育刑である。
 旧約聖書出エジプト記20章から23章においては、今で言う民事事件、刑事事件いろいろ取り混ぜられているが、刑罰には、教育的意図が皆無とはいわないまでも、基本的に応報刑の原理が貫徹していると思われる。
「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」(出エジプト21:12-14)
 業務上過失致死罪と殺人罪が区別されている。
 裁判における量刑の原理は、「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」(同21:24-25)である。これを文字通りとれば同態復讐法のようであるが、当該聖書箇所の前後に記されているもろもろの判例から見ると、文字通りの「同態復讐」を意味しているのではない。むしろ、100という重さの罪を犯したら100の重さの罰を科し、60の罪を犯したら60の罰を科すべしという、応報の量刑の原則を示している。それは、裁きにおいて神の正義が貫徹されることが意図されているからである。今日の刑事事件の裁判報道を聞くと、犯した罪の重さに反して、刑罰が軽い。1人殺しても死刑にはまずならない。3人計画的に殺せば、死刑の場合があるというくらいである。これは今日の裁判においては、教育刑の考え方が相当強いことを意味している。
 教育刑という考え方からいえば、死刑制度は、社会全体へのみせしめ的な教育効果はともかく、罪を犯した本人にとっては無意味である。死んでしまっては(もしこの世しか存在しないなら)教育にならないからである。死刑制度は応報刑の考え方においてのみ意味がある。
 ところで、応報刑の場合、被害者の遺族の犯人に対する復讐の代行としての応報として考えることには、限界がある。被害者遺族が犯罪者の死を望んでいる場合は、刑務官は「私は遺族に代わって、犯人に死をもたらすのだ」ということで、自らの務めを正当化できるかもしれない。だが、ときおり死刑囚の被害者遺族が死刑囚を赦し、彼の死を望まず「むしろ誠実に生きることをもって罪の償いをしてほしい」と願うようになることがある。刑務官の苦悩はここにきわまる。被害者遺族が復讐を望んでいないのに、なぜ自分は犯人を殺さねばならないのかということになるからである。
 聖書における罪に対する応報の目的は、基本的に神の正義の貫徹ということにある。罪に対する神の怒りの実現である。被害者遺族がそれを望もうと望むまいと、その罪によって犯された神の正義が、犯罪者を罰することを要求するのである。聖書の刑罰思想に立つならば、執行にあたる刑務官は、あくまでも神の正義の代行者として、その務めに携わることになる。したがって、言うまでもないことであるが、刑務官は神の御前に犯罪者を監禁して苦しみを与えたり、あるいは命を断ったことについて罪に問われることはありえない。刑務官はその任務を果たしたのである。