苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ4 個人生活と公的なことと

主イエスと同じように使徒パウロも、一方で「愛は寛容である」と赦すことのたいせつさを説きつつ、正しいさばきについて説いている。教会における戒規については1コリント5章、6章を参照されたい。ではパウロはこの世の法廷についてはなにを教えているだろうか。ローマ書12章末尾から13章前半にかけて、パウロは個人生活と世の法廷における、悪に対する、それぞれの場における扱いについて語っている。
 ローマ書は12章19節から21節は、個人生活において私的に復讐することを禁じ、むしろ積極的に敵に対して善を行なうことによって、平和を作ることを勧めている。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
 そして、続くローマ書13章3,4節において、神は「上に立つ権威」の剣を用いて、悪に対して報いをすると教えられている。「それは、彼(上に立つ権威すなわち支配者)があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」
 つまり、ローマ書は個人生活においては悪に対して私的復讐をすることを禁じて善をもって悪に勝てと教え、神がこの世の公的な機関を用いて悪に復讐をなさるのだと教えているわけである。聖書は、この世の裁判制度の意義をこのように認めている。
 一般市民としての立場にあって、キリスト者は私的に復讐することは許されない。個人生活において私的復讐をすることは許されていない点では、裁判官も同じである。しかし、公の立場として裁判官は悪に報いるためのさばきをすることが任務とされている。私どもも、もし公的に裁判員として選ばれたならば、その裁判にかぎって「上に立つ権威」を構成する立場に身を置き、法にしたがって悪に対して復讐すること自体は間違ったことではない。