苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ3 正しいさばき

「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1)この主イエスの山上の説教の断片を根拠にして、裁判員になることに躊躇を覚えたり、辞退するキリスト者がいるかもしれない。しかし、主イエスは一切の「さばき」という行為を否定していらっしゃるわけではない。事実、同じマタイ福音書18章で、主イエスは教会の兄弟姉妹を正しさばく目的とプロセスを丁寧に説明なさっている。
「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ18:15-18)
 教会におけるさばきは一般に「戒規」と呼ばれるが、その目的は、「兄弟を得ること」つまり罪を犯した兄弟が神の前に悔改めて立ち直るように導くことである。そのプロセスの詳細については、ここでは説明しない。
 だから、主イエスは「さばいてはいけません。さばかれないためです。」ということばで、すべてのさばきを否定しているのではなく、間違ったさばきを否定しているのである。マタイ伝7章の文脈における間違ったさばきとは、人に対するさばきの基準は辛く、自分に対するさばきの基準は甘いという不公正なさばきである。神は公正な審判者であるから、あなたが人を量る物差しで、あなたを量り返したまう。だから神から寛容に扱われたいのならば、むやみに人のあら捜しをするのをやめて、寛容でありなさいということである。
「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:2-5)
 私たちはえてして、自分の目の梁に気づかず、隣人の目のちりが気になって仕方がない。だが、主イエスの十字架の下で自分の目に突き刺さった梁に気づかされて取り除いたら、不思議なことに、たいていの隣人の目のちりなど気にならなくなってしまうものである。これは個人生活や教会生活において、人に対して寛容であるための秘訣を教えていることばであって、教会の務めの一つである戒規を否定したり、俗権(国家)の務めの一つである裁判を否定することばではない。