苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ1 国家とその役割

 裁判員制度発足後、初の公判が現在進行中である。ローマ・カトリック教会は、政教分離原則に反する可能性が高いとして聖職者たちに裁判員になることを辞退するように勧告し、一般信徒に対しては、司祭に相談してよいと述べ、特にカトリックの見解としては死刑制度廃止が望ましいと考えていると述べている。プロテスタント諸派では統一見解は提出されていない。
 司法は、立法・行政とならぶ国家の三つの務めのひとつである。裁判員制度について聖書にしたがって考えるにあたって、まずは、聖書における国家というものはなんであるのかについて大きな文脈を確認してメモしておきたい。

 神が国家に委託している務めは、ローマ書13章の言葉に基づいて伝統的に「剣の権能」と呼ばれてきた。これは堕落してしまった人間社会の実情にあっては、残念ながら暴力装置で社会秩序を維持せざるを得なくなっていることを示している。また、ローマ書は俗権には「徴税」する権利があることも述べている。広く民から集められた富は、権力者の懐を暖めるということはありがちではあるが、本来的には公共的な働きのためにこれを配分するというのが権力者にゆだねられた務めである。というわけで、ローマ書13章によれば、俗権の任務とは剣による社会秩序の維持と富の再分配ということができようか。

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」(ローマ13:1-7)

 とはいえ、国家というのは本来「創造の秩序」に属する由緒正しいものではない。ローマ書13章は専制君主制を正当化するための王権神授説の根拠にはあたらない。王権の由来を聖書に問うならば、古代イスラエル預言者サムエルの時代に、初めて王が預言者サムエルの時代に立てられたとき、それはイスラエルの民の肉的な望みから出たことだった(1サムエル8章)。彼らは周辺の諸民族が王を持っていることがうらやましくて、王を欲した。彼らの目には、王のいる国々は戦争にも強く思え、王のあり方はその国に華を添えると映ったのであろう。本来的には、イスラエルの王は神ご自身であったが、それが肉眼には映らなかったのである。こういうことを考慮すると、ローマ書13章が手放しにこの世の剣の権能が王権神授説といったことを述べようとしていたと解釈すべきでないと思われる。
 かつてナチスに協力したドイツの神学者たちは、国家というものは「創造の秩序」によるとしたそうであるが、聖書にはそんなことは書かれていない。創世記を読めば剣の権能は堕落以前には存在しなかったし、必要もなかった。悪を裁く剣の権能は、堕落後に起こったノアの大洪水の裁きの後に制定された。
  「人の血を流す者は、
  人によって、血を流される。
  神は人を神のかたちに
  お造りになったから。」(創世記9:6)
 創世記の1、2章が、創造以来の人間の生活の秩序として述べているのは、七日に一度の安息日礼拝、結婚、労働の三つを挙げるべきだろう。国家は、堕落の結果、「狼の狼に対する闘争」になってしまった人間社会の現実に手当てをするために、補助的・副次的に立てられた制度にすぎない。国家の剣の権能が機能しなければ、北斗の拳のような弱肉強食の世界になってしまうからである。だから、国家はそれ自体目的ではなく、ほかの三つの制度に仕えるための手段にすぎない。つまり人々が神に礼拝生活をし、健全に家庭を営み、労働に励んで文化形成するための外的条件である安全や平和を保つことが国家の役割である。だから使徒パウロは「威厳を持って平安で静かな一生をすごすために」為政者のために祈ることを勧めている(Ⅰテモテ2:1)。したがって、いかに美辞麗句が並んでいようとも「教育勅語」に見られるような、国家=天皇を至高の価値として、国民の宗教生活・家庭・仕事をすべて国家のために仕えるものとして位置づけた超国家主義は、目的と手段を転倒した忌むべき偶像崇拝にほかならない。
 国家の務めは、民が安心して宗教生活・家庭生活・仕事を営むことができるための外的条件を整えるために、暴力装置によって社会秩序を維持することと、徴税によって富の再分配を行なうことである。司法の役割は暴力装置による社会秩序の維持の一部であるということができよう。

群馬自然史博物館の魚の化石。ひれの先まできれいに残っています。やっぱり化石は瞬時に埋められてできたんですね。そうでないと腐るか、食べられるかですから。私の高校生時代とちがって、今の教科書にはそういうふうに記されていますが。http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/daikouzui.htm