苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮村先生との出会い(その6)


父の死、そして『存在の喜び』

 男子寮では短パンにランニング姿の神学生たちが、うなぎの寝床のような寮の部屋で、ギリシャ語やヘブル語に呻吟する季節になった。夏休み、なるべく看病する母の重荷を代わってやりたいと思って帰省した。最初、父の食道に巣食ったガン細胞は、切除にもかかわらず全身に急速に転移がひろがっていた。父はひたひたと迫りくる死の影を感じて、「この病気はよくならんような気がする」というようなことを口にするようになっていたが、ガンということばを口から出すことは、死に対する恐怖のゆえか、あるいは看病する母へのせめてもの気遣いのためか、控えていた。
ガンは容赦なく父のからだを蝕んでやがて肝臓あたりが硬くはれあがるようになってきた。不平というのではなく、「どうにもならずしんどくてだるいなあ」とよく父は言っていた。ベッドに起き上がるのも一苦労という状態になっていたが、牧師が訪ねてくださると、力をふりしぼってベッドに起き上がって、みことばの勧めを静かに聞いている姿が印象に残っている。「今ぼくの信仰は弱っていますが、必ず立ち直ります」と話す父は、謙虚で正直だった。
夏休みが終わって神学校が再開したので、私は東京に戻った。神戸の父母を気遣いながらも、神学生としての学びは充実しており、また青梅キリスト教会と小作集会での歩みのなかで、「一度にすべてではなく」少しずつ私は内側から変えられてきていた。あの献身者としての気負いと、それにともなう恐れが消えうせて、内側に主に仕える喜びが静かに湧くようになっていた。だが、その変化がいったいどういうことを意味するのか、必ずしも十分には理解することができないでいたのである。
 十月十日、父は天に召された。五十三歳だった。容態急変のしらせを受けて、私はその三日前に帰省していた。父は、召される前夜、母に向かって、「きみと結婚して幸せだった。こうしてキリストを信じられたから。帰ろう。帰ろう。」ということばを遺して去っていった。私は父に主イエスへの確信が回復されたことと、恋女房の母に父らしいことばを遺していったことを知って、平安のなかで葬儀を終えて神学校に戻ることができた。
 それから一ヶ月後、青梅の山々が色づき始めたころ、宮村先生が白に黄緑の帯をかけたような素朴なデザインの一冊の本を差し出された。表紙に『存在の喜び――もみの木の十年』としるされている。
 「もみの木幼児園の十年間の記録文集です。『存在の喜び』の『の』は、主格的属格の『の』でなく、目的格的属格の『の』なんです。つまり、存在が喜ぶのではなくて、存在を喜ぶ喜びという意味です。」
 と、先生はいかにも新約学者らしい表現で書名の解説をしてくださった。私は、宝物をいただくような思いで受け取った。教会からの帰りの電車で開こうかと思ったが、もったいなくて、神学校の寮の一室にもどってから読み始めた。読み進むにつれて、この春から先生が折々の語らいの中で口にされたことばで、私にとっては謎であったいくつものことばに掛けられていたベールがはらりはらりと落ちていくようだった。主イエスは「からだのあかりは目です」とおっしゃったが、目がちがえば、こんなにも見えてくる具体的な日常世界はちがうのかと驚いた。
いや、今読み返しても驚いてしまうのである。春夏秋冬を通じて日々なされる幼児園の具体的な暗唱聖句・お弁当・お昼寝といった営み、そして季節ごとに織り込まれる入園式、遠足、運動会、卒園式といった行事のなかで、神の摂理の下に生きるとはどれほど喜ばしく味わい深いことなのかということが考えられ具体的に展開されているのである。
 宮村先生については、敬愛をこめてなのだが、先生は理想主義者であるとか、先生の足は地面から浮き上がっていて頭が雲の上に出ているとかいう見方をするむきがある。私もそういうことをときどきおもしろがって言ってきた。けれども、それは皮相的な見方であって、事実は、宮村先生においては、聖書に根ざしたことばが日常の生活を照らして輝かせたり、あるいはことばが現実のうちに実を結んでいくのである。永遠世界のことばが、空虚な観念にとどまらずに、いのちあることばとして、時の中に受肉していくのである。それは、青梅キリスト教会の歩みにおいてそうであったし、沖縄に転じられてからの先生の歩みにおいてもそうであった。このことを、今回『存在の喜び――もみの木の十年』を読み返してみて改めて実感して、相変わらずの観念論者である自分は、先生の歩みにははるかに及ばないと思わされているのである。
それはさておき、最初に『存在の喜び』を読み進めて、次のくだりに来たとき、私は胸が熱くなって、鼻の奥がツーンとなって、しばらく前に進めなくなってしまった。
「子どもについてさまざまな不安や焦りを抱く保護者と接する度毎に私の心に響く思いは、いつもこの一事です。大部分のことは、過度に心配する必要はない。問題があるとすれば、本来それ程まで心配しなくてもよいことをあまりに過度に心配し、問題でないことを不安な一定しない思いからの取り扱い故に問題としてしまう危険です。心配しなくともよいことを過度に心配するあまり、本当に心配しなければならない数少ないことを軽視したり、無視してしまう、誠に残念です。
 では、数少ない心配すべき事柄とはどんなことでしょうか。
 園児にとって、何が無くとも、これだけは是非必要なこと、それは自らの存在が喜ばれている確認です。両親が自分の存在を喜んでいてくれる。園でも、教師や友人たちが自分の存在を喜び受け入れていてくれる。自分の存在が少なくとも或る人々に心から喜ばれているとの自覚は、必要不可欠なものだ。これこそ、この十年深まり続けてきた確信です。何が出来るか、何の役に立つかと機能の面からのみ判断されるのでなく、ただそこに存在していること自体が喜ばれ重んぜられる。この経験なくして幼児は、いや人間は真に人間として生きることは出来ないのではないでしょうか。」(四八、四九頁)
最初に青梅キリスト教会を訪れたとき、何の奉仕をしましょうかと勢い込む私に対して先生がおっしゃったことばが甦ってきた。
「神学生にとって何よりも尊い奉仕は、あれをするこれをするということではなくて、礼拝者としてそこに存在するということです。神さまは、そのことを何よりも喜んでくださいます。」
 あの時にはわからなかったけれど、今ははっきりとわかった。神は、驚くべきことに、この罪深い私のような者の存在を喜んでいてくださる。なにができるか、なんの役に立つかということ以前に、わたしがここにいるということを喜んでいてくださるということが、恐怖の雲が晴れてはっきりとわかったのである。主イエスを信じてまもなく献身を表明し、主の奴隷として自分の感情も意志も知性も捧げ尽くして生きたいと願ってきた。主が死ねと言われれば、「はい」と死ねるようなしもべになりたいと願ってきた。そのこと自体は間違いではなかったのかもしれないが、いつのまにか自分の奉仕のわざをもって自分を支えようとする律法主義的な傾向と、そういう自分を評価する神の目と人の目への恐れが私を縛っていたのであった。けれども、このとき、神は私の働きのいかんにかかわらず、私の存在そのものを喜んでいてくださるのだということに気づかされたのだった。
 この出来事は、私にとっては大きな信仰の転機となった。腹の底から湧き上がってくる喜びを抑えることができず、私は「存在の喜びのセールスマン」となってしまった。いったい何冊の『存在の喜び』を友人たちに買ってもらったかは記録がないのだが、神学校の食堂でもチャペルでもどこででも私は存在の喜びをあかししないではいられなかった。(つづく)

追記2011年11月21日>
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