苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮村先生との出会い(その3)

出会い―――もっとも大切な奉仕
三月下旬、神学校の入学試験に出かけた。朝早くからの試験ということで、いっしょに受験することになった白石剛史兄とともに前日から神学校の寮に泊めていただいた。その夜は緊張のせいか眠気が来ないので、腕立て伏せをしたら、いっそう眼がさえてしまったことを記憶している。
翌日、筆記試験を終えてから、面接試験となった。ロの字に配置された長テーブルの三方に座った教授会の先生方八名ほどが面接をしてくださった。左三番目に宮村先生がおられ、自己紹介なさった。豊かな真っ黒な髪と、分厚いめがね、分厚い胸、そして「宮村です。」とおっしゃった鼻声が印象的だった。まず救いの証、献身の証をしたあと、先生方お一人一人がなにやら質問をなさった。そのとき、宮村先生が何を質問なさったかも残念ながらすべて忘れてしまった。忘れたのは、質問のねらいが理解できなかったせいであろう。ただ、この先生が「ほかのだれにも任せられない」ようなごうまんな自分をあえて任せようと、朝岡先生が決めた先生なんだなあ、何を考えていらっしゃるかわからない先生だなあという印象だった。
 神学校入学が決まり、春休みのあいだに青梅キリスト教会にごあいさつに出かけ、宮村先生と執事の方たちにお会いすることになった。私は気負って質問をした。
「神学生として、何の奉仕をしましょうか。トイレ掃除からしましょうか。」
 執事さんたちは気負っている私を見てニコニコされていた。宮村先生はしばらく沈黙なさってから、眼鏡の奥からじっと私を見て、熱を込めておっしゃった。
水草君。神学生にとって何よりも尊い奉仕は、あれをするこれをするということではなく、礼拝者としてそこに存在するということです。神さまは、そのことを何よりも喜んでくださいます。」
 「はい。」と応えたものの、実は先生が言わんとされることが、そのときの私にはあまりよくわからなかったのである。礼拝者としてそこに存在するというのはどういうことだろうという問いは、このあと半年間の私の宿題となった。(つづく)