苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アブラハムのとりなし

 私が原発震災のような問題について話をすると、「水草牧師は変わっているねえ。」とか、「教会がそんなことまで視野に入れないといけないのか。」とか言われることがある。私と私が仕えている小海の教会の祈り会ではいつも原発震災のことを憶えて祈っている。そして、祈るたびに、アブラハムがソドムのためにとりなし祈った場面を思い浮かべる。
 紀元前2000年頃、ソドムは不道徳に満ちた都市国家で、その悪臭は天にまで届いていた。主なる神は、まもなくこれを滅ぼそうとしておられたのである。聖書には、そのとき、主が次のように考えたと書かれている。
「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
 つまり、アブラハムは約束の地の相続人であるから、このソドムの地についてどのように処分するかについて、隠しておくのはよくないと神は考えられたというのである。相続地に対する責任と権利がアブラハムにあるからである。アブラハムはそのことを自覚していた。だから、このあと、アブラハムは主の前に立ちふさがるようにしてソドムのために数時間にわたって懸命にとりなし祈る。
 神は、私たちをこの時代、この日本という国に遣わされていることを思うときに、この日本という国が直面している危機にかんしてやはり祈るべきだと信じているのである。