苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主が私の手を

                  詩篇73:21−26

       H姉召天記念 2009年6月21日 主日礼拝にて

私の心が苦しみ、
私の内なる思いが突き刺されたとき、
私は、愚かで、わきまえもなく、
あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。
あなたは私の右の手を
しっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、
後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、
だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
この身とこの心とは尽き果てましょう。
しかし神はとこしえに私の心の岩、
私の分の土地です。       詩篇73:21−26


1.Hさんとの出会いのころ

 私が最初にHさんをお訪ねしたのはいつのことでしょうか。記録していないのですが、6年前こちらに会堂が引っ越してきて、ここが二枝さんの実家だと教わってしばらく後のことでした。当時、Hさんは腰を痛めて、それまでのように思うように活動ができなくなりつつありました。もともとたいそう勤勉な方でしたから、思うように動けない自分のことをせつながっていらっしゃいました。
 「先生。あたしがもっと元気だったら、畑で作った野菜をあげられるのにね。」としばしばおっしゃいました。
 訪問して、お話をしていると、「お茶をどうぞ」、しばらく座るとまもなく、「この御菓子をどうぞ」、また少し話をすると立ち上がって、「この煮物もどうぞ」と、勧めてくださいました。まあ、マリヤ型でなくマルタ型のおばあちゃんでした。
 Hさんは、よく人の世話をなさる方でした。昔は、ご自宅で下宿屋をしていらっしゃって、佐久方面の高校に通う親沢、川上村の高校生たちをあずかっていらっしゃったそうです。毎朝、ご主人とご自分の子どもだけでなく、預かった子どもたちのお弁当を作るのが下宿屋のおかあさんとしての忙しいお仕事でした。
 数年前から私が訪問するようになって、おうちに行くと、たいてい近所の御婦人たちが一人二人コタツに座っていて、お茶を飲みながらいろんな話をなさっていました。土村栄町のお茶のみステーションみたいでした。みなさんHさんの所に来て一服すると、ほっとしてまた仕事に戻っていかれるごようすでした。
 でも、そんなふうに、人にああしてあげたい、お菓子を上げたい、野菜をあげたいHさんが、数年前から腰を痛めて思うように動けなくなって、世話をしてもらう身となったので、とっても切なくなっておられたのです。詩篇73編の21節、22節を読むと、老いて病を得て、思うように動けなくなってから後のHさんの悩みを思い起こさせられるのです。
詩73:21-22「 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。」


2.神のものとなる

 Hさんのからだの衰えがひどくなってきて、風邪をひいたりすると心臓が苦しくなって、佐久病院の分院に入院をなさったりすることが何度かありました。そこで、冬場はむしろ老健施設にいるようにしたほうが、家にいるよりもからだにさわらないであろうということになって、2007年の11月末ころ、Hさんは土村の老健にしばらくいらっしゃいました。私と家内は折々、お訪ねして、聖書の紙芝居をしていました。そんな中で、Hさんはイエスさまを信じるようになられたので、病床で洗礼を授けました。12月11日のことです。
 洗礼というのは、「あなたは万物の造り主、神様のものとなりましたよ」という印です。私たちは神様によってお母さんのおなかの中で造ってもらって、この世に生まれてきました。でも、たいていの人はまことの神様のことを知らずに恩知らずに生きています。Hさんも、お年を召されるまで自分にいのちをくださり、すべてのよきものを供えてくださった神様のことを知らずに背を向けて歩んでいました。けれども、その間違い、罪を認めて、イエス様を救い主と信じられましたので、洗礼を受けたのです。その式において牧師は、「父と子と聖霊の名によって、あなたに洗礼を授ける」と申しますが、それは「あなたには神様のものとなりましたよ」という意味です。ちょうど人が自分の持ち物に、自分の名札をつけるように、神様はようやくご自分のものとして帰ってきたHさんに、ご自分の名をつけてくださったのです。
 聖書黙示録には天国のありさまが記されています。神の民は、その額に神の名が記されているとあります。
黙示22:3-4「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」

 Hさんは、その後もうち続く老いと病の苦しみのなかで気弱になることもしばしばおありでした。Hさんにも信仰の戦いもありました。けれども、Hさんがどんなに弱ったとしても、Hさんにご自分の名をつけた主イエスがその右の手をしっかりと捕まえて、天国へと導いてくださったのです。
詩73:23-24 「しかし私は絶えずあなたとともにいました。
 あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
  あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。」


3.天国というところ

 天国とはいったいどんなところでしょう。そこにはなにがあるのでしょう。黙示録には次のようにあります。
黙示22:1-4「使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」
天国は栄光に満ちた、輝かしいところです。罪も穢れも苦しみも悲しみもない、きよらかなところです。それは、きよい神様が天国に臨在なさっているからです。天国というのは、なによりも神様と御子イエスとの聖霊にある豊かな交わりがある場所なのです。
詩 73:25 「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。
 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」
 「あなたのほかに私は誰をも望みません」とはどういうことでしょう。人は家が欲しい、車が欲しい、パソコンが欲しい、トラクターにはジョン・ディアが欲しい、というふうに思います。そして、あれを得て、これを得て一時はたしかに満足するでしょう。けれども、またしばらくすると、あれが欲しい、こっちのほうがよかったという風になります。私たちは、何を得てもなかなか本当に満足ということにはなりません。蛭の娘のように、くれろくれろと言ってきりがないのです。
 けれども、詩人はいうのです「あなたのほかに私は誰をも望みません。」天国ではまことの神様を本当に知ることになりますから、もうほかに何も要らないというほどの満足と喜びが湧き上がってくるのです。それでも地上にあっては不完全でしょう。しかし、天国にほんとうに入れていただくとき、ほんとうに満ち足りた感謝を得ることになります。なぜなら、天国というのはまさしく私たちのことを愛して、私たちのためにいのちまで惜しまずに十字架で死んでくださった主が、よみがえってともにいてくださるからにほかないません。

 人間のこの肉体のいのちは尽き果てるものです。今、元気にしている私たちとて、それぞれ5年、10年、20年たてば必ず衰えて尽き果てるときがくるのです。私たちは、そのことをわきまえているべきです。いつまでも地上のいのちがあると思って、うかうかと過ごしているべきではありません。それは傲慢なのです。私たちは朝あって日が高くなると消えてしまう露のようなものにすぎません。自分が死すべき者であり、神の前に出る日がやってくることをわきまえることを聖書は知恵と言っています。
 Hさんは衰えてくる肉体の中で日々つらい思いをなさっていました。そのなかで、「先生、まだでしょうかねえ。」と、主のときを待ち望んでいらっしゃいました。
 そして、先週、12日金曜日の明け方、主イエスはお約束どおりにお迎えに来てくださっておっしゃいました。「さあ、あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
今、Hさんはこの世を去って、とこしえの相続である主を得られたのです。

詩73:26 「この身とこの心とは尽き果てましょう。
 しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」