苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

人格は目的として

 私は神学校1年生のとき、宮村武夫先生の仕えている青梅キリスト教会の開拓伝道の群れ小作集会に通うようになった。宮村先生は青梅キリスト教会と小作集会で交互に礼拝説教をなさっていて、先生がいらっしゃらないほうの礼拝では木村執事が宮村先生の説教原稿を代読するという奉仕をなさっていた。代読という礼拝説教がありうるのだということを私はこのとき初めて経験した。代読ではあったが、木村執事の取り次がれる説教は生き生きとしていて、ときに宮村先生の語り口よりも力強くさえあった。通い始めて三ヶ月ほど経ったとき、宮村先生はおっしゃった。
「君に説教の代読の奉仕をしてもらおうと思っています。けれども、わたしは決して、君を私の説教を伝えるための手段にしたいとは思っていません。人格は手段にはしてはならず、つねに目的として扱うべきからです。」
 その言い方はご自分に言い聞かせるような調子だった。そのとき、このことばの意味が私には十分には理解できなかった。というのは、そのころ私は、罪赦された罪人にすぎない自分は、神様の奴隷にすぎない。そんな自分を道具として用いていただけるならば、それで十分だというふうな考えだったからである。しかし、宮村先生は、この説教代読にあたる奉仕者を単なるテープレコーダーとして扱うことにならないために、説教原稿を二週間前には渡してくださって、代読者からの質問を受けたりして、代読者が単なる読み手ではなく、十分に自分の心からのことばとしてその奉仕をすることができるように配慮してくださったのである。
 「人格の内にある人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱うことのないよう行為しなさい。」というのは哲学者カントのことばであるが、主への奉仕という名の下に、神がご自身のかたちとして造られた人間を非人格的にあつかう危険がありがちなことを先生は意識していらしたのであろう。
 なお付け加えておきたいことだが、後々、宮村先生の新約神学や聖書解釈学を学ぶなかでわかってきたことは、説教の代読というのは単に複数の集会を同時に可能とするため、やむをえない手段として取られた方法ではなかったということである。むしろ先生の新約学者としての確信に基づいた方法だったのだと私は理解している。新約聖書に含まれる使徒たちの多くの書簡は、初代キリスト教会の時代、各地の教会に回覧され礼拝で朗読され、神のことばとして聴かれ、そして実を結んだという事実に基づいている方法なのである。むろん使徒本人が神のことばを生でとりつぐのを聞くことができるというのは、幸いなことであったけれども、たとえばパウロについていえば、彼の手紙は重みがあって力強かったけれども、実際に会って聞いた話は弱弱しく、その話しぶりはなっていなかったとさえ言われている(1コリント10:10)。説教代読のほうが、むしろ宣教において効果的でさえある場合もあったというのである。
(宮村武夫著作集第一巻『愛のわざとしての説教』の解題より抜粋)