苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

一人と百人、ゼロと一人

 米国の留学を終えて帰国した宮村武夫先生の伝道者として初陣の地は埼玉県寄居の伝道所だった。そこで先生は宣教師とともに働いた。
 あるとき未信者を相手とする伝道会を開いた。宣教師と手分けして町中にチラシをたくさん配って歩いて、いよいよ当日になった。先生が説教壇が立つと、集会所にたった一人だが女子高生が話を聞きに来てくれていて、もう一人は宣教師だった。若い先生は、『よし、この一人の女子高校のたましいにまで届くように』と、一生懸命に福音を語っていた。と、ガラガラと集会所の玄関のあく音がした。『あ、もうひとり来てくださった』先生は内心喜んで、力が入った。ところが、入ってきたのは、くだんの女子高生のおかあさんであったらしく、なにか用事ができたからと彼女を連れ戻しに来られたのだった。結局、その未信者を対象とした特別伝道集会の会衆席には宣教師一人になってしまった。いったい、宣教師を前に伝道メッセージを続けたものかどうかと先生は困ってしまった。
 そのとき、先生は悟られたそうである。「一人と百人は量的なちがいにすぎないが、ゼロと一人とは質的なちがいなのだ。」
 私は十六年前この地に来て借家をして開拓伝道を始めた時、家族以外に、松原湖バイブルキャンプの常任スタッフの方たちが、いっしょに礼拝できたのは恵みだった。だが、春・夏・冬のキャンプシーズンやその準備期間には、妻・母・小学1年の長男・1歳の長女と私という家族だけの礼拝ということもしばしばだった。そういう時期が1年半ほど続いた。
 ところがある主の日、シーズン中でキャンプスタッフはおらず、私と長男以外、みんなカゼをひいてダウンしてしまった。小学校1年生の息子ひとりを前にして、一生懸命に聖書のメッセージをとりついだ。この子がいてくれなかったら、文字通り壁を前にして、私は説教しただろうか。一人と百人とは量的な違いにすぎないが、ゼロ人と一人は質的な違いなのだ。