苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

スランプへの対処

 私たちはクリスチャンは、何事でも狭い意味で「信仰的」に捉えすぎる傾向がある。たとえば抑うつ状態になると、何らかの罪が原因だと即断するというふうに。たしかに、ダビデが罪を犯したとき、それを隠していた結果、彼はひどく落ち込んだという事例はある。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」(詩篇32:3)ダビデはその罪を神に告白して、抑うつ状態から解放された。
 しかし、抑うつ状態の原因のすべてが罪であるわけではない。たとえば、エリヤがひどく落ち込んだのは、彼が主のために極度の緊張のなかでいのちをはって奉仕をした直後のことだった。このとき、主はまずエリヤに休養とパン菓子を与えて身体的回復をはかりつつ、ホレブ山へのトレッキングをさせて体調を整えて後、彼に新しい召しをお与えになった(1列王18章と19章)。過労が要因で落ち込んだときには、神は休養と栄養と適度の運動を取らせるようになさった。
 またあるクリスチャンたちは、原因はなんでも悪霊であるととらえる傾向がある。たしかにゲラサの青年は悪霊にとりつかれて抑うつ状態におちいって、自傷行為に走っていた(マルコ5章)。その場合には、主イエスは彼から悪霊を追放してやった。しかし、すべての抑うつ状態・精神疾患が悪霊によるわけでもない。
 また、対人関係における怒り、憤り、無慈悲といった悪意が聖霊にある喜びを奪い去ってしまい、それを神に告白して赦し合うことがたいせつであることも聖書は述べている。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:30-32)これはダビデの場合と同じように、罪と抑うつ状態の関係に分類されるだろう。
 こんなふうに思いつくだけで、聖書はスランプには罪、身体、悪霊という三つの要因があると教えている。『霊的スランプ』という分厚い本が成り立つほど、さまざまな要因があるだろう。罪がスランプの原因なら、罪を処理しなければならない。悪霊がスランプの原因なら悪霊との関係を断ち切らねばならない。過労が原因なら休養と栄養が必要だし、身体的病気がスランプの原因なら、治療か、直らないまでも生活習慣を改善して病気をうまくコントロールする必要がある。視野を広く持って、それぞれの要因を見極めて、適切に対処することが必要である。
 ひとつ注目すべきことは、今日のカウンセリング理論でやたらととりあげる幼い頃からの親との関係について、聖書はそれほど関心を示していないということである。事実、幼い日の親との関係が当人の性格傾向に大きな影響を及ぼしているとしても、そのことをいたずらに強調することは、かえって当人を過去の鎖と親に対する怨みに縛り付けて、身動きが取れなくするだけである場合があまりにも多いからではないだろうか。むしろ聖書は、私たちに天を見上げ、前を見て進むことができるようにしてくれる。「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」(ヨハネ9:3)
 聖書は狭い意味での「信仰的」な書物ではなく、多様な側面をもつ私たちの生を神との関係を軸としてみごとに描いている。神は万物の創造主であり、私たちに霊だけでなく、たましいもからだをもお与えくださったお方であるのである。何が主因であり、何が副因であり、それがどんなふうに絡み合っているのかをときほぐして対処することが大事なのだろう。
 「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(1テサロニケ5:23)