苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アウグスティヌス

昨日、神学校で、前回につづきアウグスティヌスの話をした。若き日の雄弁術教師としての出世のもくろみ、十六歳にして同棲し十七歳にして子を得たという(かならずしも当時にあっては珍しくなかったとはいえ)放蕩的生活、母モニカの古臭いキリスト教信仰への反発と流行の合理的宗教マニ教への傾倒と失望、愛した者との別れ、情欲を抑えられぬ自分自身への失望。プラトン派への接近とあの古臭い母の信仰への回帰、そして、庭での劇的回心。回心後、まもなく司祭に、やがてヒッポの司教に推されて、ドナティスト論争、ペラギウス論争をはじめとする神学論争に立ち、彼の神学的思索は神学の諸課題をほぼ網羅した。最後の十数年は、三位一体の神を見る日にあこがれつつ『三位一体論』を記すかたわら、蛮族によるローマ蹂躙に際しての世からの教会への非難に対してキリスト教弁証のために『神の国』で歴史哲学を展開した。アウグスティヌスの神学と教会への影響は、以後千五百年間、決定的なものとなった。また、彼はプラトンアリストテレス、オリゲネスとならんで西洋思想の淵源となった。
 アウグスティヌスは、北アフリカヌミディアのタガステという小さな町に生まれたので、おそらくベルベル人であったろうと言われる。だとすると、彼の風貌は真っ黒い頭髪と真っ黒な目、小麦色の肌と彫の深い顔であったのだろう。ベルベル人は民族的にはコーカソイド系で、独特の言語と文化を持っている。当時、北アフリカローマ帝国の属州とされて、ラテン語公用語とされていたから、アウグスティヌスにはもう一つ母語があった。後年彼が司教として住むヒッポとは、アフリカの角と呼ばれるカルタゴに次ぐ都市であり、イタリア半島の対岸にあたる。今日でいうチュニジアチュニスに近い。かつてカルタゴの将軍ハンニバルがローマと戦い、敗れ、カルタゴはローマの手に落ちた。永遠の都と呼ばれるローマへの憧れと同時にひそかな反感は、北アフリカ人としての血のなすところかもしれない。
 アウグスティヌスの魅力は、比類なき書『告白』に記されるように、彼がプラトン的な思索の人でありつつ、生身の人間として、具体的な生を送ったことにある。存在論的契機と実存的契機が縦糸と横糸となって彼の文章は織り上げられている。彼は、若い日に回心後、隠者のような書斎人として歩むことを志したが、かなわず、神は彼を現実世界のなかで苦しむ人々のただなかに身を置くように導かれた。彼は人々のために呻吟して祈り、生涯、牧会者として仕えた。殉教精神に満ちたきまじめな分派ドナトゥス派の人々の説得に長年にわたって携わったが実りを得ず、結局、彼らが暴徒と化してしまったとき、その鎮圧を皇帝に求めざるを得なくなってしまったときの彼の葛藤はいかなるものだったろう。このとき、アウグスティヌスは正義の戦争などというものはあるのかという、戦争の現実をその目で見て知っている者にとっては問うこと自体がむなしい問いに、あえて向かわねばならなかった。
 当時、ローマ帝国はすでに末期を迎えていた。かつて質実剛健の気風をもって鳴ったイタリア半島都市国家ローマの市民は、カルタゴを滅ぼし地中海世界を版図に収め、さらに東方まで手中に入れて後は、「ローマの平和」を謳歌して、各地の富を集めて、日々、美食・快楽・不正・奢侈・淫蕩にふけっていた。413年歴史を支配する神の鉄槌は、ついにローマに下って、永遠の都は東方から乱入したゲルマン人の一派ゴート族という蛮人たちの手に落ちた。
 ローマが滅んだだけではない。ゴート族がドナウ川を越えて始まったゲルマン民族の大移動の津波は、やがてヨーロッパ全土を呑み込み、ついに、ジブラルタル海峡を越えてアウグスティヌス自身が住む北アフリカにも及ぶ。紀元430年6月ヒッポの町は、蛮人たちに包囲された。齢七十を越えたアウグスティヌスは、包囲される前に逃れる機会をあえて放棄して、最後の時までこの町の牧会者として死の恐怖におののく人々に神のことばをもって慰め続けることによって仕えて、熱病に倒れ、町を囲む蛮族のときの声を遠くに聞きながら死んでいった。8月28日のことだった。死の数日前、彼は悔い改めの詩篇四篇を書き取って壁に貼り、涙ながしつつ神に罪を告白し、神を賛美しながら死んだ。
 死後、彼が四十年間築いてきた町と教会のすべてが灰燼に帰したけれど、彼の膨大な著作は炎と剣から守られ、以後、千数百年にわたる教会の歴史と人類の思索に大きな貢献をすることになる。後に、最期までアウグスティヌスのそばにおり、彼の伝記作家となったポシディウスはいう「しかし、私は、彼から多くを得た人は、彼が、教会で話しているのを、実際に、見たり聴いたりすることができた人であり、とりわけ、彼が人々のあいだで歩んだ生涯のあり方に触れていた人だと思います。」
 若い日、筆者が牧会の現場に身を置いて神学をしたいと志したのは、アウグスティヌスの影響が大きい。まさか自分を彼のような巨人と比しうる器だと自任するほど愚かではないけれど、小さな器は小さな器なりに、教会の兄弟姉妹に仕えて中身のある生き方をしたら、いつかわずかでも真実なことばを語りえる日が、実質のある神学を語りえる日が来るのではないかと思ったのだった。自分が観念的な口説の徒に堕しやすい人間であることを知っていたからだ。
 教会史を講じるために改めて学び始めて四年になる。教会の歴史を学ぶほどに、そこには多くの傷や恥ずべき罪や過ちがあった。それにもかかわらず、教会は尊い。なぜなら、教会は神がご自身の血をもって買い取られたものだからである。教会を軽んじる神学者は、神学者の名に値しない。
聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督としてお立てになったのです。」使徒20:28