苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

再考 職業召命説

(6月4日 キリ神チャペル説教余禄)

1. ルターと職業召命観のプロテスタント圏へのひろがり
 ローマ教会では、司祭職・修道士は聖なる職務につくものであり、その他の労働は俗なる卑しいものであると見做された。聖書に立ち返った宗教改革者は中世ローマカトリックの聖俗二元論を批判した。そこに職業召命説が出現する。
 M.ヴェーバー「ルターの職業観」によれば、「使命としての職業」にあたる語は近世以降、プロテスタンティズムが優勢な民族の間でのみ見出される。これは宗教改革における聖書翻訳たちの「成果」といえる。その始まりは宗教改革者ルターである。ルターは、1533年に旧約外典『シラ』11: 20, 21のギリシャ語エルゴンとポノスをberuff(現代表記Beruf)と訳したが、この翻訳以前、beruffということばは「聖職碌への招聘」を意味する場合にのみ用いられていたのである。従来、ヨーロッパの言語の労働に当たる語には、「使命としての職業」という意味はなかった。ルター後、ドイツ語の「聖職への招聘Beruf」に相当する語は、すみやかにあらゆるプロテスタント諸民族の通俗語のなかで、職業を意味することばとして用いられるようになり、職業は「使命としての職業」という意味をもつようになり、現在にいたっている。
 ルターの職業召命観は、アウグスブルク信仰告白に簡潔にまとめられている。第二部第26条はキリスト教生活を儀式遵守として祭司・修道士の生活のみを聖なるものとして、家父、母、君主の働きを世俗的・非宗教的と見なしてきたことを批判している。同27条は修道士のみが完全の状態にあるとされてきたカトリックの間違いをただし、すべてのキリスト者がその「召しvocatio」に従って「使命としての職業vocatio」に仕えて生きることの大切さを説いている。すなわち、各人が召しvocatioにしたがって家父、母、君主の働きをすることの宗教的意義を主張しているのである。ラテン語vocatioはvoco(召す)の名詞形で、ドイツ語のBerufにあたる。


2.カルヴァンキリスト教綱要』では

 カルヴァンは『キリスト教綱要』で「召し」についてどのように教えているだろうか。渡辺信夫の索引によれば、第一は「救いへの召し」であり、これが節にして26箇所ある。第二は教職への召しについてで、12箇所。そして、職業や社会的立場を召しとして主題的に述べているのは、ただ一箇所、第三篇10章6節と、意外に少ない。カルヴァンの職業召命が有名になったのは、M・ヴェーバーの所論によるところが大なのだろう。とはいえ、カルヴァンが件の箇所において次のように述べていることは重要である。その要点を抜粋しておく。
 「主がわれわれひとりびとりに、生のあらゆる行為において、その『召命』を注視せよと命じたもうことである。」「それぞれが別の暮らし方をするようにめいめいの義務を定めたもうたのである。そして、誰もがその限度を踏み越えないように、そのような暮らしかたのことを『召命』と呼びたもうたのである。したがって、ひとりびとりの暮らしは、いわば、主によって配置された持ち場のようなものであって、これによって生涯の全行程を無思慮にさまよわなくてよいようにされているのである。」このあと、それぞれの身分をわきまえて下剋上はすべきでないことが語られ、最後に「主からの召命が万事において正しく行為する原理であり・基礎であることを知れば十分である。・・・どんなにいやがられる・いやしい仕事であっても(あなたがそこであなたの『召命』に従いさえすれば)神の前で輝き、もっとも尊いものとならぬものはないのである。」(渡辺信夫訳。括弧内はラテン原典のもの)
 カルヴァンはここで「召し」ということばを、職業という意味だけでなく、社会的身分という意味でも用いている。カルヴァンが当時のキリスト教社会に、次のローマ書12章3節-5節のことばを適用して述べていることは明らかだろう。 「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」


3.聖書の労働観

 ルターやカルヴァンカトリックの聖俗二元論を批判して、その意図をもって一般の職業もまた神の前に宗教的な意義があると考えたことは正しかった。なぜなら、ローマ書12章冒頭にあるように、神は、すべてのキリスト者に対してそのからだを神に受け入れられる生きた供え物としてささげ、全生活をもって神を礼拝することを求めているからである。それゆえ、キリスト者は労働をもっても神をあがめるべきである。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
 しかし、そのためにルターが聖書の翻訳において、労働にあたるギリシャ語に、もともと「聖職への招聘」を意味したベルーフということばを意図的にあてたのは、当時の聖俗二元論に陥っていた教会と社会の改革には有意義であったとはいえ、問題がある。それは、職業一般について召命ベルーフということばを用いることによって、聖書が語る伝道職への召しが何であるかを見失わせるという結果を生み、後に社会が世俗化し一般の職業観が世俗化したとき、伝道職の世俗化を引き起こすことになるからである。特に国教会においては伝道職は国家公務員であるから、なおのことである。
 聖書の労働観は、召命ではなく、むしろ創世記2章に記された文化命令にその土台を置くべきである。
「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)
 労働は、人が堕落する以前に、神が人間にお与えになった祝福された義務であった。ところが、アダムが堕落してのち、労働には呪いが入ってきた(創世記第3章17節)。ゆえに、現状において労働には、神から託された祝福ある任務という側面と、呪われた苦役という二つの側面がある。実際、我々は労働に携わるとき、この二つの側面を、実感しているであろう。
 キリスト者としては、雇う立場であれ、雇われる立場であれ、本来の祝福ある義務としての労働となるように、神を畏れて労働態度・労働環境の改善をはかっていくことが求められている。
 職種については、消極的には十戒にそむかないかぎり、文化命令に資するすべての労働は、文化命令への応答、すなわち神の祝福ある義務であると捕らえることができる。さらに積極的には、神を愛し、隣人を愛するという目的にかなって労働をするならば、いかなる職種であれ、その働きを通して神の栄光をあらわすことができる。聖書的なキリスト者の労働観とは、「文化命令に対する礼拝的応答」と表現することができよう。
 しかし、新約聖書における用語法では、神からの召しによって就く職務は、伝道職のみである。その特殊性をも見落としてはなるまい。

まとめ
1. 労働とは神の文化命令に対する応答であるが、堕落後、労働には呪いの苦役としての側面も入ってきた。この両面の現実を把握することがたいせつである。
2. キリスト者すべては献身者であることが求められており、したがって、それぞれの職業を通しても、神の栄光をあらわすべきであり、現すことができる。聖書的な労働観とは「文化命令に対する礼拝的応答」である。
3. 聖書は、召しという用語を、職業については伝道職への召しという場合にのみ用いている。それは伝道職の召しには特殊性があることを意味する。(特殊性についてはhttp://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090604/1244121325


<注>本メモの1前半については、折原浩「マックス・ヴェーバーのBeruf論――ルターによる語義創始とその波及」改訂版(2004年6月26日、2004年7月2日改定版)参照。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Debate%20Orihara%20Essay%20200406-3.htm