苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

十字架の愛

Lk23:33-49
2009年6月7日 小海キリスト教主日礼拝

1. 十字架の上で

 石畳の道をイエス様は一歩一歩踏みしめて、ついに処刑場ゴルゴタの丘に到着しました。時は午前九時。ゴルゴタは「どくろ」という意味です。その名の由来は、どくろが転がっていたからというより、むしろ、この丘はある方角からみると、白っぽい岩山に二三の洞窟が黒々とあいているありさまが、どくろに見えるからでしょう。
 この処刑場に到着すると、ローマ兵はイエス様を十字架の荒木の上に乱暴に押し倒し、一人の兵士が腕をぐいっと引っ張ると、もう一人の兵士がイエス様の腕に、長さ十センチ余の太い釘を打ち込みました。よく聖画では釘は手の平に打たれたように描かれていますが、近年、十字架刑になった囚人の遺骨が発掘されて、釘は手のひらではなく、手首とひじの間の二本の骨の間に打ち込まれたのだということがわかりました。手のひらではずっしりとかかる囚人自身の体重によって肉が裂けてしまうからです。そして、もう一本の釘は足のかかとの骨を貫きました。いったいどれほどの激痛を主は、忍ばれたのでしょうか。
 そして、三本の十字架が兵士たちによって立てられました。
 「「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」23:33
 イザヤ書にある、メシヤの墓は悪者どもとともに設けられるという預言が成就するために、罪なき神の御子イエスは極悪な犯罪人ととにもあのゴルゴタの丘で十字架に掛からねばなりませんでした。
 三本の十字架が立ち上がると、群衆から怒号と嘲笑の声が上がります。『ははは。地獄に落ちろ。この極悪人ども。」すると、それに答えるように、イエスの両側の囚人は嘲る人々に対して、自ら激痛にさいなまれながら「てめえらこそ、地獄に落ちやがれ。」と呪いのことばをもって報います。嘲りの声が一瞬絶えたそのとき、中央の十字架上のイエスは天を仰ぎました。そして彼の口から、はっきりと祈りの声が聞こえてきました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」23:34
 ・・・いったい、これは人のことばでしょうか。人間はいったいこのような祈りをすることができるのでしょうか。主イエスはかつて弟子たちにこのように、教えました。
「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。・・・ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:27−36抜粋)
 主イエスは、このように教えられただけでなく、教えたことをそのまま実行なさったのです。イエスさまは、ご自分を憎み、のろう人々のために涙を流して祝福なさいました。ご自分をつばを吐きかけて侮辱する人々のために神の赦しを求めて祈りました。こぶしで殴りつける者には反対のほほを向けました。ローマ兵はイエス様の衣を剥ぎ取りました。いいえ、下着までも剥ぎ取ったのです。なんという屈辱でしょうか。その上、彼らはふざけてイエスの着物をくじ引きにして引き裂いて分け合いました。しかし、イエス様は、そういう彼らを愛されたのです。イエス様は、激痛のなかで力を振り絞ってこの人々の赦しを願って祈られたのでした。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
 この世には偽りの愛が満ちていたとしても、この十字架の主イエスには神の愛があらわれています。


2.主の十字架の下の人々

 このようにイエス様が十字架上でとりなし祈っているときに、十字架の下の人々はどうしていたのでしょうか。民衆、指導者、兵士たちの言動が記されています。
「 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』
兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え』と言った。『これはユダヤ人の王』と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」23:35-38
民の指導者たちは、「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言い、ローマの兵士たちは、「ユダヤ人の王なら自分を救え」といいました。そこを通りかかった民衆も「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」といったとマタイは記録しています。十字架の下の人々のことばを見ていますと、それらは「自分を救ってみろ」ということばに集約されます。まるで判を押したように同じようなことばでした。彼らの考えでは、「人を救う救い主、王、メシヤという者は、自分を救う力がなければならない」ということでした。つまり、彼らは救い主は、力をもって敵を圧倒してしまう者でなければならないというのです。彼らは自分たちのメシヤ像にイエスがまるで当てはまらないぞ、と怒鳴っているのです。「お前みたいな救い主は気に入らない」「貴様のような神の子は気に入らない」「お前のような王なら要らない」と嘲ったのです。さらに、イエス様の隣にいた十字架上の一人の犯罪人までも同じ事を言っています。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」
祭司長、律法学者、長老、民衆、ローマ兵、犯罪人と立場は異なっていますが、彼らの求める救い主像というものは一致していました。そして、それは神が送ってくださった現実のメシヤとは、はなはだしく異なっていたのです。
彼らが求めていたのは、ローマの圧制からの政治的救いであり、重税の下での貧困からの救いであり、圧制下での屈辱からの救いでした。言い換えると、彼らは力、富、名誉を求めていたのです。ところが、十字架にかかったイエス様はそういうものは持ち合わせていない。それで、「イエスよ、おまえは救い主であるといいながら、俺たちに武力も、権力も富も快楽も名誉も与えてくれそうにないじゃないか。おまえ自身、権力も富も快楽も名誉も何も持っていないのだから。おまえは役立たずの救い主だ。」と彼らは不満をぶちまけているのです。

私たち人間は、救いを求めながら、実は、自分がなにから救われなければならないかを知りません。私たち人間は、幸せを求めながら、何を得たら幸せになるかを知りません。私たちは自分は不幸だと嘆きながら、自分が不幸である本当の原因を知りません。しかし、イエス様は私たちにもっともたいせつなものをお与えになるために、この世に来てくださいました。イエス様は、私たちの不幸の根本的な原因を除くために来てくださったのです。主イエスは祈られました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」23:34
 神が送ってくださったのは、罪の赦しを与える救い主なのです。神に背を向けている罪こそが、私たちの不幸の根本的な原因であるからです。罪はどのように人を不幸にするでしょう。罪は、人を自己中心にし、神様をないがしろにして隣人をふみつけるのです。
 力を求める人は、これまで俺を踏みつけにした奴らをこっちが踏みつけにする番だと思うでしょう。1989年ベルリンの壁が崩壊しあちこちの共産主義政権が次々に醜悪な姿をさらしながらバタバタと倒れたとき、私たちは驚きました。若い日に平等を求めて民衆のために命がけで戦ったはずの革命家たちが、権力を握ったとたんに権力欲の権化になっていたことを知ったからです。でも権力の問題は、遠くの人々の話ではありません。中学の部活動で上級生が下級生に理不尽なことを要求して踏みつけにします。踏みつけられていた低学年の子どもたちは、今度自分が上級生になると今度は低学年を踏みつけにする・・・こういうくだらないことは、上官の命令は天皇陛下の命令だと思えといって、軍隊で行なわれていたのです。昔、姑が嫁にしていたことと同じです。権力を得て人を踏みつけにして幸福なのでしょうか。
 富を求める人は、富を得ればほんとうに幸福になれるでしょうか。どれほど多くの兄弟たちが、親の財産の相続をめぐって争い、一生涯口を利かなくなってしまっているでしょう。兄弟よりも多くの財産を獲得できたら、それで幸福でしょうか。
 快楽を求める人は、実際に快楽を得れば幸福になれるのでしょうか。どれほど多くの人々が一時の快楽を求めたために、家庭を破壊して自分の健康もいのちも失うような目にあっていることでしょう。
 名誉を求める人は、その世間的な名誉を得ることで、ほんとうに幸福になれるのでしょうか。人々の前でほめそやされるような者を、神は軽蔑なさるのです。
 私たちにとって何が問題なのか。罪です。聖書は権力と富と名誉と快楽をそれ自体悪であるとは教えていません。むしろよいものでしょう。しかし、これらのものは罪の問題が処理されない限り、私たちにとって、害となるのです。では罪とはなんでしょうか。罪とは、まことの神に背を向け、自分を神のようにして自己中心に生きることです。
 この神に背を向けた自己中心の心から、あらゆる悪が出てきます。
「人から出るもの、これが人をけがすのです。内側から、すなわち、人の心から出るものは、悪い考え、不品行、偸み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人をけがすのです。」(マルコ7:20-23)
 わたしたちが心の思いとことばと行ないによって犯す罪の一つ一つは、すべて終わりの時に、聖なる神の法廷でこの上なく公正に裁かれることになります。人には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。罪とはなんと恐ろしいものでしょうか。人は貧乏を嘆きますが、貧乏だからといって地獄に落ちた人は一人もいません。病気がつらいと思います。けれども、どんな病気も人を地獄に落とすことはありません。しかし、罪は人を燃えるゲヘナの中に陥れてしまいます。


3.二人の犯罪人

 ここに十字架に付けられた二人の犯罪人がいます。二人ともこれまで悪いことをしてきたのでしょう。そして、今その悪業行の報いを受けて、処刑されようとしています。神様はしかし、この二人に最後のチャンスを与えてくださいました。一人はそのチャンスを生かしてパラダイスにはいり、もう一人はそのチャンスをむざむざむだにして、永遠の滅びのなかに陥りました。イエス様に対する態度が、永遠の運命を決定したのです。
 最後の最後に救われて天国に入った犯罪人はなにをしたのでしょうか。犯罪人はイエス様に対して親切もなにもできませんでした。これまで彼は十字架に処刑されるほど、相当あくどいことをしてきたのです。そして、マタイ福音書の平行記事によれば、彼も十字架にかけられながら、最初のうちは他の人たちといっしょになって、イエスを罵っていました。けれども、隣にいるイエス様のご様子、格別、そのとりなしの祈りを聞いたとき、彼の心は変えられました。『このお方は罪を犯してはいらっしゃらない。このお方は、尊い神の御子でいらっしゃる。』と。そうして、彼がしたことはたった二つのことでした。そのとき、彼はイエス様によってパラダイスに入れていただけたのです。その二つのこととはなにか。
 第一に自分の罪を認めて悔い改めたことです。
「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(23:41) 自分は罪を犯した、罪の報いを受けるのはあたりまえです。このように神様の前で自分の罪を認めることが救いのためにまず必要です。なぜなら、神様がイエス様をとおして与えてくださる救いとは、罪の赦しであり、罪からの救いであるからです。自分の罪を認めない人には罪の赦しの恵みを受け取ることはできません。
 第二に、この犯罪人がしたことは、イエス様を神の御子救い主として信じて、それを告白したことです。彼はいいました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(23:42)彼はイエス様が天国の御座におすわりになる神の御子であると信じて思い出してくださいとイエス様に信頼したのです。そのとき、主イエスはおっしゃいました。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)
 すべりこみセーフでした。

結び
 「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」敵のためにこのように祈られたイエス様は、まことの愛の神の御子です。このお方に、自分が犯してきたすべての罪を告白しましょう。そして、イエス様、この罪深い私のことも憶えていてくださいと祈りましょう。主イエスは、必ずあなたの地上の生涯の尽きるとき、あなたをも迎えに来ておっしゃいます。
「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます。」